今年初めから、榎本武揚について下記の観点から調査し、まとめたものを毎月、
本メルマガに掲載して行く予定です。また、その後、将来、英文に翻訳し、外国
人に彼を紹介して、"知られざる国際的日本人"として彼らの日本人観を一変させ
たいと思っています。と言うのも、数年前、「ラストサムライ」と言う映画が話
題をにぎわしました。しかし当方が観た印象では、特に最後の場面では「砲弾の
中を刀で突進していく」と言うもので、とても理性的でなく、単純化され過ぎて
いてまた、単に蛮勇としか言いようが無いものでした。如何にもアメリカ映画だ
と思い、がっかりしました。無論そのような戦闘をした侍もいたことは確かです
が、そればかりではないということを紹介しつつ、そのようなサムライ・日本人
のイメージを払拭したいと思っています。取りあえず、徐々にまとめ、メルマガ
にて出力していきたいと思いますので、ご興味ある方は最後までお付き合い願え
れば幸いです。
1.はじめに
今月は、最初なので、なぜ今、榎本武揚を取り上げるかを述べたいと思います。
彼が若い頃(18歳)に蝦夷(北海道)やサハリンに行き、測量を手伝った。この
測量を通じ何を学び、後年、オランダへ留学し、何を学んできたかを調査し、紹
介したいと思います。また、帰国後、留学で外国文化をいち早く学びながら、旧
体制を支持し、新政府へ戦いを挑み戦い、具体的には函館戦争を起こし敗れまし
た。その後、入牢し、敵の将であった黒田清隆や、福沢諭吉の働きで、生きなが
らえ、解放後は一転して、北海道開拓使として働いた。その後、内閣に迎えられ、
文部大臣、さらには外交官として、外務大臣として活躍してきた。ロシアとの交
渉をまかされ帰国時、馬車でぺテルスブルグ(欧州)からシベリア経由で帰国し
ている。(これは若い頃の北方調査における活躍と関心に関連すると思われます。
)
明治新政府となってから、時代が彼を必要(要求)したとは言え、技術者から、
戦闘のリーダー、外交感覚を身につけた彼の努力と才能、実績を紹介しながら、
彼の思想および問題点を追ってみたいと思います。その上で、なぜ、旧体制を支
持したか(勝海舟とは別の活動)を考え、教育のあるべき姿を考えたいと思って
います。逆な言い方をすれば、教育の観点から彼を眺め、分析して行きたいと思
っています。
1.2 どのような側面から取り上げるか
前述の通り、彼は、函館戦争を代表するように一見、時代と逆行する活動をし
ながら、一方で、この戦争通じて実施してきたことは米国、フランスおよび英国
に「極外中立でいるよう」外交交渉を行い、戦闘に当たっても、ゲリラ戦法を取
りながら国際法に基づき行うという現代的な面もあった。生涯を通じて、技術屋
としての律儀な性格を基本として、また一方で、5ヶ国語をこなし、外交官とし
ての理性的面を交渉で見せ、説得力を持ち合わせていた。当時のロシア皇帝アレ
キサンダー三世の好感をもたれた人物でもある。他方、個人的には交渉力におい
ても伊藤より力がありながら、幕府側に組したことで、薩長・明治政府に負い目
を感じてか、政界で活躍することはなかった。そんな彼を浮き彫りにしたいと考
えます。一般的日本人にない人物として21世紀に生きていても不思議でない位
国際的な人物として紹介し、学童をどのように教育すべきかを検討する材料とし
たいと思っています。
また、同じく、長崎伝習所で学んだ1年先輩の勝海舟と比較して、なぜ二人
が幕末の活動に大きな違いを見せたのかを述べていきたいと思っています。通常
伝記は時系列的に述べるのが普通ですが、ここでは、勝との対比を中心に述べた
いため、第2部からスタートさせていただきます。
Part 1: 誕生からオランダ留学を終え、帰国まで。
(1)彼は若い頃は地理を学び、日本地図作成の手伝いや、伝習所では、船のエ
ンジンを扱うエンジニアとして活躍していた。
(2)オランダでの留学生活で何を学んだか。
Part 2: 函館戦争の顛末
函館戦争の首領として活躍した彼の戦い方(ラスト侍として)を調査し、問
題点を含め述べていきます。そして「仮に彼は勝ったとしたら、北海道はど
のようになっただろうか?」を考えてみたいと思います。
Part 3: 函館戦争後、牢屋から開放され、明治維新政府に閣僚としての活躍
明治維新以降の彼の活躍ぶりを調査し、述べていきます。「もし彼が死罪と
なっていたら明治維新または日本はどのようになっていたか?」を考えてみ
たいと思います。
以上
