明治時代にありながら、かつ日本人でありながら、日本人にないスケ
ールの大きな国際人としてまた、21世紀に生きていても不思議でない位の存
在感と活躍ぶりを紹介したいと思っています。また、国際人を育てるには帰国
子女や学童をどのように教育すべきかを検討する材料としたいと思っています。
1.幕末1850年代以降の勝の活動と考え方
1.1 倒幕運動と幕府の動きに対し、勝は以下の考え方を持っていた。
(1)どんなに困っても、国を売るようなことは断じてしない。
(2)幕府だけのために行動はしない。
(3)尊王攘夷派と開国派(また後の薩摩・長州反幕派と幕府側との対立)と
の激しい対立の中で方向を失いかけていると判断し、「日本全体をどの様にす
るか。」これが勝の基本姿勢であった。これには幕府的立場を超越し、国全体
のために、事態を処理する他ないとした。
(4)このためには、薩摩とも話し合いを行った。
1.2 勝の活動と幕府および諸藩の動き
(1)勝の動向:
1863年9月:西郷と会見し、以降しばしば会見した。幕府側の人材不足、慶喜
への失望感から勝の動きは反幕府的となった。当然、かれは幕府側から見て、
不穏と判断された。
10月10日:ついにお役御免となる。即ち、蟄居の身となるが、切腹を命じられ
ないだけ幸いであった。これは彼が慶喜から将来、利用価値があると判断され
たためであろう。しかし同時に、神戸操練所は解散となった。これにより、勝
自身は益々反幕府となった。
(2)幕府および雄藩をめぐる英、仏の対立:
1)第1次征長戦争で、幕府とフランスの関係が密となる。具体的例として
下記が挙げられる。
・1865年:幕府、「横浜に製鉄所、横須賀に工廠を新設する。」ことを仏公
使・ロシュに委任した。
・横浜にフランス語学校を開校(ロッシュの要請による。)
・その他、ブラッセルに仏国人と商社を新設した。
2)薩摩と英国との関係:
・英国商人から銃砲や軍艦を購入す。
・五代、寺島、森有礼を英国へ留学させた。
3)長州藩:英国と接近、機械や武器を購入した。
長州は禁門の変での敗戦で、幕府に謝罪の姿勢を示すため、3家老を切腹させ
た。藩がお取りつぶしにならなかったのは西郷の配慮よるものであった。
しかしその後、長州は幕府に恭順姿勢をとる俗論派に主導された。
1864年12月:高杉、長府の功山寺で挙兵し、長州藩の方針を転換させよう
とした。これに伊藤と彼の指揮していた力士隊が続いたが、藩内では内乱が
起き、混乱した。
1865年1月:奇兵隊は山県が指揮を執ることとなり、俗論派を攻略し、藩は正
義派が主導するようになった。長州は表面上恭順を保ちながら同時に近い将
来幕府側が再度攻めてくると予想し、自藩を下記の4か所に分けて防備を敷く
こととした。
・芸州(広島) ・大島口(周防大島) ・石州口(島根)
・小倉(福岡小倉)
4)4カ国連合、長州の下関攻撃事件の後処理として、パークスの最終提案と
して下記を幕府に要求してきた。
・賠償金の支払、慶応2年中に支払うこと。
・大阪、神戸を開港し、条約の勅許を得れば支払延期を認める。
5)上記4カ国の要求を受けて、幕府・慶喜は老中を抑え、公使等に回答延期
を求め、将軍上洛し、4カ国の要求の勅裁を仰ぐこととした。
これに対し、朝廷は「条約勅許、神戸開港」を不可としたため、幕府の面目
丸つぶれとなった。
6)1865年:第2次征長戦争(四境戦争ともいう)
この戦争は勝や榎本に直接関係しない。と言うより勝は前述の通り、幕閣
から外され、蟄居の身となり、活躍する場を失った。しかし、時は動きを増
していくこととなる。これから幕府が衰退の一途を進み、逆に、長州が勢力
を回復し、薩摩と組んで討幕へ加速することとなる。極めて重要な事件であ
るので、少々、詳しく戦略を含め説明を加えたいと思う。また、長州では高
杉やその部下として活躍する山県はこの戦争体験を通じて、後の帝国陸軍の
形を作り上げていくこととなる。
なお、以下の本稿は主に「山県有朋」伊藤之雄著によるものである。
1865年4月13日:幕府は諸藩に長州再征を命じた。しかし、各有藩(薩摩、
尾張、越前等)は出兵を拒否した。幕府自体も財政窮乏していた。さらにま
た、この年は全国的飢饉が起こり、このため江戸、大阪、兵庫で一揆が発生
し、世情騒然であった。このため、幕府も征長に中々踏み切れなかった。同
時に幕閣内でも征長戦の可否を議論して時間を要し、勅許が出てから既に1
年が既に過ぎた。
一方、同年、長州は前述の通り、自藩の内乱を高杉をはじめとする正義派が
固めて、幕府側の攻撃に対処するよう態勢を固めつつあった。また、薩摩と
連合し、また英国から援助を受けて、最新兵器を購入していた。
1866年5月:幕府側は総勢10万人を長州境に集結させた。ただし、前回と異
なり、薩摩はこれに加わらなかった。他方、長州は幕府側の10分の1の兵
力であった。小倉口には高杉、山県が奇兵隊を指揮していた。山県はやる気
満々で、小倉を攻める案を木戸に提案したが、「戦争が起こると万民がひど
く苦しむので、やむを得ず幕府側と戦う」ということを天下に示す必要があ
ると窘められた。
6月7日:大島口で、幕府戦艦からの砲撃で戦闘開始となった。
高杉等は小倉で、小倉藩兵および肥後藩兵計2万人が集結する小倉城を奪う
計画を立てた。6月17日:高杉が指揮する奇兵隊は自藩の戦艦の援護射撃
を受けて小倉城を攻め、戦闘を開始した。8月には城を占領したが、戦いは
12月末まで続き、12月28日和議が成立した。4つの戦いの内、藩外への
進出しての戦いのため、小倉が最も激しい戦いとなった。この時、高杉や山
県が立てた戦略は下記であった。
①薩長同盟を利用して、九州全域を支配する。
②さらに、広島、岡山を薩長に協力するよう説得し、土佐、鳥取、松山藩の雄
藩を薩長を支持するよう転換させる。
以上の案は藩主へ提言したが受け入れられず、1年後、鳥羽伏見の戦いとなっ
た。他の3つの口は容易に勝った。
幕府側の負けた原因:
①長州側が最新兵器で装備しているにも関わらず、幕府側は弓矢、槍等の旧式
の武装をしていた。
②長州兵の自国を守るという意識で、士気が上がっていた。
③主に戦いは自藩内であったので地の利を得ていた。
フランスは幕府を支援したが、結果として国内政局が外国の勢力介入により決
定される代理戦争の様相を呈してきた。これは勝が最も恐れるところであった。
7)7月20日家茂、病死する(享年21歳)。慶喜は徳川本家を継ぐこととなる。
しかし、家茂の死後、慶喜は将軍となることは拒否していた。
12月:慶喜、15代将軍となる。:朝廷から依頼を受けるとすぐさまこれを受託
した。そして、慶喜は勝を呼び寄せ、長州との戦争中止を交渉させようとし、
勝を長州派遣した。勝は長州へ向かい宮島で待機していた。
家茂の死を理由に征長を中止することとし、長州と交渉し休戦とした。実質は
幕府側の敗北であった。このことで、慶喜は有藩から信頼を失うこととなった。
1866年12月:孝明天皇崩御した。このため公武合体案は頓挫した。
1867年1月:明治天皇、皇位につく。
8)1867年10月:慶喜の必死の努力により、下記が勅許となった。
・兵庫開港 ・長州処分 は今後の問題として残し、条約のみ勅許された。
これで幕府完全に権威を失う結果となった。
今回はここまでとします。次回榎本が登場します。お楽しみに。
当方のコメント:再度、高杉晋作のコミュニケーション能力について
今回は榎本や勝の活躍の場がなかったが、目を引くのは高杉の活躍である。
長州藩は反幕府の急先鋒とて働き蛤御門の戦いで失敗し、謝罪のため三家老が
切腹させられた。また、攘夷運動として下関で外国船に砲撃しその時は外国船
が逃げたが、後日4カ国連合艦隊が長州を攻め上陸占領すると言う結果を招き、
今考えるとハチャメチャで過激な藩と思える。全て自ら起こした事件であり、
失敗の反動として当然ながら、藩内では反幕府派としての「正義派」と恭順す
る保守派の「俗論派」に割れて入れ替わり藩内体制が揺れに揺れた。
当然、この時期は(第二次長州征伐の命が出る時期)俗論派が長州藩が政権
を握っており、正義派の主要メンバーであり、奇兵隊の高杉、桂、伊藤などは、
それぞれ解散を余儀なくされていた。そこで、かれらはその後、如何にすべき
かを論議するため、功山寺に集まった。その時、高杉が一人、幕府に恭順する
ことを拒み、「幕府を迎え打つべき」と唱えた。曰く「一里行けば一里の忠を
尽くし、2里行けば2里の義を表す。尊皇の臣子たるもの一日として安閑とし
ている場合ではない」とした。この名言が同志の一人伊藤を揺さぶり高杉に従
う決心をした。伊藤が率いる力士隊が加わった。因みに山県等他の者は様子見
であったと言う。この時の高杉のたった一人の反乱が、オセロゲームのように
正義派へとひっくり返された。
単なる言葉だけで人は動かないが、動く時は言葉が必要である。高杉の身を捨
てた行為と発言が同志を揺さぶったと言えよう。この意味では高杉はコミュニ
ケーション能力に長けた人物である。また、この後、小倉戦を戦う途中病死す
るが、彼は倒幕へ向けての戦略を持っていた。単に、幕府軍を防衛するためで
はなかったと言える。
2009/06/11
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