2010/08/26

15.4 薩長政権下での活動

明治維新となって、新内閣制度ができる1885年までの間、榎本は新政府(薩長
政府)の下で、政治基盤を整える役職に任ぜられ、以下のような基盤作りを担う
こととなった。
1874年:海軍中将となる
1879年:地学会設立、副会長となる。
1880年:海軍卿となる
1882年:皇居造営事務副総裁
同年:駐清特命全権公使となる。

大きな役割は別項として述べる。

1.海軍卿となり、日本海令の草案作成
1880年:明治初年以降、海令の他も同じく、法律が整っていなかった。
特に海運は非常に幼稚で、無きに等しかった。このため、榎本が海軍卿時代、榎
本の知識を必要とされ、日本海令の草案を上呈した。
ただし、当時、かれの持つ海軍中将の肩書きはロシア全権公使として必要な肩書
きであり、彼は日本海軍の建設には極力避け、1年2ヶ月で辞した。

2. 皇居造営事務副総裁
1883年:近代的皇居の造営が計画の議題となり、その計画に当たり、ロシアの宮
殿を良く知っている榎本が皇居造営御用掛・副総裁に選ばれた。ただし、当時薩
長政府下では例え、有能な人物であっても、最高の地位に就くことは出来なかっ
た。即ち、政府は最も必要とする場合のみ最高の責任ある地位に就かせ、その後、
解任することを常とした。(常にピンチヒッターの役割)
榎本は自ら藩閥政治の中に入ってまでそれをしようとはしなかった。即ち自分の
経歴を意識していた。ただし、黒田の後ろ盾で各種重要ポストに就くこととなっ
た。
1883年9月:皇居造営事務副総裁を免じられた。清国駐在・特命全権公使として
家族を連れ中国に駐在となった。

3.気象学会と気象台設立
1878年代:内務省地理局の下、荒井郁介等を中心に日本人学者や技術者の手によ
り、気象観測事業を開始する。
1879年:地学協会設立、榎本は副会長に任ぜられる。
1883年:東京気象学会が成立す。荒井が主に動き、会誌「気象集誌」が発刊され
た。
1888年:中央気象台が開始された。
1889年:大日本気象学会として新発足する。
 会長:山田(元政府軍陸海軍参謀、箱館戦争で榎本と戦った。)
1893年:山田死去し、榎本が会長を引き継ぐ。
1896年:気象台は文部省に移管された。荒井が中央気象台、初代台長となる。


15.5 外務省(外務大臣補佐)と在シナ時代

1.外務大臣補佐として
1880年:寺嶋外務卿の下で、不平等条約改正に事業に当たる。
1882年:榎本駐清特命全権公使に任ぜられる。
   皇居造営事務副総裁にも任ぜられる。
1884年:朝鮮半島情勢:甲申事変
  朝鮮は当時、独立党(日本が支援する)と事大党(閔氏の一派で、中国が
 支援する)とが争い、次第に激しさを増していった。
12月:独立党の一派がクーデターを起し、王宮を占拠した。閔氏はこれを逃れ、
袁世凱(中国)に頼った。
日本人40名虐殺され、閔氏一族の政権を樹立する。(甲申事変と言う)
日本政府・外務卿・井上を特派全権大使として軍隊と伴に京城に派遣した。
清国も同時に、呉を隊長に陸海兵を付けて京城に送った。
1885年1月:井上と呉が談判し、清国は日本へ弔慰金と公使館修繕代を支払うこ
とで合意し、調印した。
1)天津条約締結
  中国は北洋大臣・李鴻章、日本代表は伊藤博文であった。榎本は裏方として
李鴻章と打ち合わせし、解決を助けた。
  初めは双方共、強気で妥協せず、伊藤は条件に合わなければ引き上げ、戦争
も辞さない覚悟であった。榎本はこれを相手にも伝え、説得を重ねた。
   最終的に下記3条件の決着をみた。この影には榎本と李鴻章との信頼関係
が働いてのことであった。影の立役者と言える。また、榎本は伊藤の交渉力をた
いしたことはないと判断していた。当時、伊藤に限らず、相手が弱いとみると、
高飛車に出るのが役人の常であった。一方、榎本はこの様な態度は取らず、語学
が出来たこともあるが、話し合いで、信頼関係を築き(無論駆け引きもあるが)交
渉を進める態度であった。Win-Winの関係を築いた。

1885年4月:中国と日本とで下記内容の条約を締結した。
・朝鮮から日本軍及び中国軍を撤退させることとする。
・両軍は朝鮮に軍事教官を派遣しないこととする。
・出兵の必要があれば、事前に交渉し、事変後撤退する。
 
これ以降の彼の外務大臣としての役割は下記に続くが、活躍内容を15.7章「
条約改正」に記す。
1891年:松方内閣で、外務大臣に就任。松方内閣が総辞職し、外務大臣を辞任。
1892年:条約改正調査委員会委員長に就任。

著者コメント:
榎本は薩長の明治政府に要請されて次々に外務大臣をはじめ役職に就任し、自ら
持てる経験と知識を新政府やシステム作りに邁進した。当時、役人とりわけ大臣
は名誉職とされ、何もせず(できずと言った方がよいが・・・。)えばっている
のが常であったが、榎本は率先して事に当たった。中国との交渉も伊藤が表向き
の代表となっているが実質は李鴻章と友情を勝ち得、取りまとめた。かれのコミ
ュニケーション能力(中国語も話せた)が発揮されたわけである。かれの日記で
「伊藤は大したことはない」と言い切っている。「長州人何するものぞ!(こい
つらに負けたけれど!・・・。)」と思ったことであろう。両者の教育程度を比
較すれば差は歴然であり、榎本が伊藤をあまり評価しなかったのも当然であろう。
また、榎本は薩摩人を好んだが、長州人は好きでなかったようだ。特に山県とは
合わなかった。

2010/08/06

ヨーロッパ情勢とロシア・シベリアの調査旅行

榎本は「千島・樺太交換条約締結」のため、全権大使としてロシア滞在中、合間
を利用して精力的にヨーロッパ各地を視察して回った。究極は、ロシアからの帰
国をシベリア経由馬車で行ったことである。これもあまり知られていない事実で
あるが、彼の個人的日記として書かれたもので、外に出さなかったためである。
この言わばかれの探検を日記からダイジェストしてお伝えする。

今回の内容は先ず、ヨーロッパ各地の視察とロシアからのシベリア経由の帰国(
と言うより、ロシア視察旅行と言うべき)旅行の前半部をお伝えします。

4.西ヨーロッパ視察(1875年8月26日~1878年:ロ土戦争終結まで)
1875年8月26日:ベルリンに到着し、松本順の息子・松本桂太郎に会う。
8月 日:エッセンに到着し、クルップ製鉄所を訪問する。
    コブレンツに滞在し、クルップの鉱山を見学する。

その後、1878年まで(ロ土戦争が終わるまで)ロシアやヨーロッパに滞在して、
以下のように、ヨ―ロッパ情勢を見聞し、分析を行っていた。
(1)トルコ情勢:ロ土戦争を見聞し、分析した。
1876年5月トルコ皇帝・アブドラ・アジスが廃位され、アブドラ・ハシトII世が
即位した。これは無血革命であったが、皇帝は民主政治を行うと言っていたが、
これは見せかけであった。榎本はこれを見抜いていた。(皇帝はハレムで生活し
ており、とても民主政治などできないと見ていた。)
トルコ情勢を見て、彼は「国の基礎は財政的独立を保つことによって初めてでき
る」と確信した。「外国から借款によって国の財政を維持することは外国の植民
地化するものである。」と判断した。
1878年:ロ土間で、サンステファノ条約が成立した。榎本はこれまでをロシアに
滞在して、ウォッチしていた。家族にもそれを伝えていた。
(2)イギリスの動静:
 スエズ運河の証券を買い入れた動きを見た。
(3)榎本は英、仏、独、ロの各国新聞を読み、戦争の結果について考察し、ロ
シアの勝利を確信したが、「ロシアの経済情勢は問題あり」としていた。
(4)アメリカ大統領・グラントがキューバを併合した。これは大統領選挙に勝
つことを狙ってのことと分析していた。
(5)ロシア情勢:
ロシア国内で社会主義者の学生運動の発生を批判的に見ていた。榎本は未だ、
専制主義に対する社会主義的批判精神を理解できていなかった。

15.3 シベリア旅行

旅行目的:(彼自身の意図)
1.当時ロシアとは樺太問題でようやく解決したが、国内ではロシアを恐れる風
潮があり、このロシア恐怖症をほぐすには、シベリアを踏破して、その実情を極
める必要があると判断したこと。
2.また駐露特命全権大使を引き受けた理由もシベリア調査の意図があったため
であった。

1878年7月26日:ペテルスブルグを出発した。彼は「ロシアの実情を調査する目
的でアレキサンダー2世の許しを得てこれを行った。同行者は1名(大岡金太郎)
期間は約2ヶ月に及んだ。
榎本はこのシベリア旅行を単なる観察に止めなかった。旅先で見るべき場所はほ
とんど立ち寄って観察し、見物し、要路の人々とも全て接した。このため多忙な
毎日を過ごした。
また、毎日、日記を書いた。
旅行は全権公使と言う肩書きで旅行し、ロシア政府から先々の長官や司令官に鄭
重に扱うよう指示が出され、各地で歓待を受けた。
当時のロシアおよびシベリアは下記の状況であった
・シベリアには鉄道は敷設されていない。
・シベリアの大部分は荒地で主に政治犯などの流刑地であった。
・道路はあったが、未だ整備されず、凸凹が激しかった。
・ロシア特有の半有蓋馬車・タランタスを用い、ロシア政府の厚意でシベリア各
 県令を通過の折りには「鄭重に扱うよう」との電信を打ってもらっていた。
・実情調査は政治、経済、軍事に及び、下記項を調査した。調査は科学的で、専
 門的であり、気温は毎日3回測定していた。
1) シベリアの地質、地理、気象、植物、鉱物
2) 土地の人情、風俗、人種、言語、宗教、
3) 地勢、地質、地味 特に鉱業、砂金の採取
4) 産業一般、交易、政治、軍隊
筆者コメント:
1.ヨーロッパ視察について
(1)前記の通り、榎本は時間を作って精力的にヨーロッパ各地を視察した。同
  時に4ヶ国語の新聞を読み、自分なりに政治情勢など分析していた。本来、
 外務省が組織立って行うべきことであるが、当時の外務省は未だ実質的に存在
 していないため、かれがその全てを行っていたと言える。結果論として、彼の
 分析は正しいと言えるが、ただし、ロシアの社会主義運動についてはかれは理
 解できなかった。これは明治となった時代でもかれの歴史観はあまり変わって
 いないことを示している。当時の天皇制の日本の下では理解できないのは無理
 もないと言える。
(2)経済および産業視察でも、4日間かけてドイツのクルップ社を見学してい
 る。先ず、クルップの別荘に3日滞在し、製鋼所で大砲の製造を見学し、その
 後、クルップの鉱山まで見ている。彼は後に、(1896年・明治29年)浦賀船梁
 株式会社(後に、浦賀ドック、または浦賀造船所となる)を興すが、この視察
 が頭に描かれていたに違いない。ただし、これもこの時彼は農商務大臣であっ
 たため前面に出ず、荒井郁之助を立てて、日清戦争の後、日本の防衛力強化の
 必要性を考え起こしたものである。
(3)当時、外務省の役人は鹿鳴館のイメージ通り、華やかな舞台として外交面
 で働くイメージであったが、榎本は地味な裏方もやっていたことでもある。

2.ロシアからの帰国旅行について
(1)ロシア・シベリアの情報は当時、日本はおろかヨーロッパ、ロシア人でも
 知られていない地であり、情報もなかったに違いない。だからこそ、彼は行か
 なければと言う、使命感を抱いていたに違いない。内容も政治、産業、軍事お
 よび住民等、多岐にわたり、これを成し遂げた彼の精神的、肉体的タフさに驚
 く。
 残念なことは、この旅行について全くと言っていいほど日本では知られていな
 い。
 これの個人的日記や家族への手紙という形を立ったためであり、彼自身があま
 り、積極的に外に発表しなかったためである。自慢したくないと言った性格や
 立場から来ることもあろう。もっと、評価されてしかるべきである。