榎本は「千島・樺太交換条約締結」のため、全権大使としてロシア滞在中、合間
を利用して精力的にヨーロッパ各地を視察して回った。究極は、ロシアからの帰
国をシベリア経由馬車で行ったことである。これもあまり知られていない事実で
あるが、彼の個人的日記として書かれたもので、外に出さなかったためである。
この言わばかれの探検を日記からダイジェストしてお伝えする。
今回の内容は先ず、ヨーロッパ各地の視察とロシアからのシベリア経由の帰国(
と言うより、ロシア視察旅行と言うべき)旅行の前半部をお伝えします。
4.西ヨーロッパ視察(1875年8月26日~1878年:ロ土戦争終結まで)
1875年8月26日:ベルリンに到着し、松本順の息子・松本桂太郎に会う。
8月 日:エッセンに到着し、クルップ製鉄所を訪問する。
コブレンツに滞在し、クルップの鉱山を見学する。
その後、1878年まで(ロ土戦争が終わるまで)ロシアやヨーロッパに滞在して、
以下のように、ヨ―ロッパ情勢を見聞し、分析を行っていた。
(1)トルコ情勢:ロ土戦争を見聞し、分析した。
1876年5月トルコ皇帝・アブドラ・アジスが廃位され、アブドラ・ハシトII世が
即位した。これは無血革命であったが、皇帝は民主政治を行うと言っていたが、
これは見せかけであった。榎本はこれを見抜いていた。(皇帝はハレムで生活し
ており、とても民主政治などできないと見ていた。)
トルコ情勢を見て、彼は「国の基礎は財政的独立を保つことによって初めてでき
る」と確信した。「外国から借款によって国の財政を維持することは外国の植民
地化するものである。」と判断した。
1878年:ロ土間で、サンステファノ条約が成立した。榎本はこれまでをロシアに
滞在して、ウォッチしていた。家族にもそれを伝えていた。
(2)イギリスの動静:
スエズ運河の証券を買い入れた動きを見た。
(3)榎本は英、仏、独、ロの各国新聞を読み、戦争の結果について考察し、ロ
シアの勝利を確信したが、「ロシアの経済情勢は問題あり」としていた。
(4)アメリカ大統領・グラントがキューバを併合した。これは大統領選挙に勝
つことを狙ってのことと分析していた。
(5)ロシア情勢:
ロシア国内で社会主義者の学生運動の発生を批判的に見ていた。榎本は未だ、
専制主義に対する社会主義的批判精神を理解できていなかった。
15.3 シベリア旅行
旅行目的:(彼自身の意図)
1.当時ロシアとは樺太問題でようやく解決したが、国内ではロシアを恐れる風
潮があり、このロシア恐怖症をほぐすには、シベリアを踏破して、その実情を極
める必要があると判断したこと。
2.また駐露特命全権大使を引き受けた理由もシベリア調査の意図があったため
であった。
1878年7月26日:ペテルスブルグを出発した。彼は「ロシアの実情を調査する目
的でアレキサンダー2世の許しを得てこれを行った。同行者は1名(大岡金太郎)
期間は約2ヶ月に及んだ。
榎本はこのシベリア旅行を単なる観察に止めなかった。旅先で見るべき場所はほ
とんど立ち寄って観察し、見物し、要路の人々とも全て接した。このため多忙な
毎日を過ごした。
また、毎日、日記を書いた。
旅行は全権公使と言う肩書きで旅行し、ロシア政府から先々の長官や司令官に鄭
重に扱うよう指示が出され、各地で歓待を受けた。
当時のロシアおよびシベリアは下記の状況であった
・シベリアには鉄道は敷設されていない。
・シベリアの大部分は荒地で主に政治犯などの流刑地であった。
・道路はあったが、未だ整備されず、凸凹が激しかった。
・ロシア特有の半有蓋馬車・タランタスを用い、ロシア政府の厚意でシベリア各
県令を通過の折りには「鄭重に扱うよう」との電信を打ってもらっていた。
・実情調査は政治、経済、軍事に及び、下記項を調査した。調査は科学的で、専
門的であり、気温は毎日3回測定していた。
1) シベリアの地質、地理、気象、植物、鉱物
2) 土地の人情、風俗、人種、言語、宗教、
3) 地勢、地質、地味 特に鉱業、砂金の採取
4) 産業一般、交易、政治、軍隊
筆者コメント:
1.ヨーロッパ視察について
(1)前記の通り、榎本は時間を作って精力的にヨーロッパ各地を視察した。同
時に4ヶ国語の新聞を読み、自分なりに政治情勢など分析していた。本来、
外務省が組織立って行うべきことであるが、当時の外務省は未だ実質的に存在
していないため、かれがその全てを行っていたと言える。結果論として、彼の
分析は正しいと言えるが、ただし、ロシアの社会主義運動についてはかれは理
解できなかった。これは明治となった時代でもかれの歴史観はあまり変わって
いないことを示している。当時の天皇制の日本の下では理解できないのは無理
もないと言える。
(2)経済および産業視察でも、4日間かけてドイツのクルップ社を見学してい
る。先ず、クルップの別荘に3日滞在し、製鋼所で大砲の製造を見学し、その
後、クルップの鉱山まで見ている。彼は後に、(1896年・明治29年)浦賀船梁
株式会社(後に、浦賀ドック、または浦賀造船所となる)を興すが、この視察
が頭に描かれていたに違いない。ただし、これもこの時彼は農商務大臣であっ
たため前面に出ず、荒井郁之助を立てて、日清戦争の後、日本の防衛力強化の
必要性を考え起こしたものである。
(3)当時、外務省の役人は鹿鳴館のイメージ通り、華やかな舞台として外交面
で働くイメージであったが、榎本は地味な裏方もやっていたことでもある。
2.ロシアからの帰国旅行について
(1)ロシア・シベリアの情報は当時、日本はおろかヨーロッパ、ロシア人でも
知られていない地であり、情報もなかったに違いない。だからこそ、彼は行か
なければと言う、使命感を抱いていたに違いない。内容も政治、産業、軍事お
よび住民等、多岐にわたり、これを成し遂げた彼の精神的、肉体的タフさに驚
く。
残念なことは、この旅行について全くと言っていいほど日本では知られていな
い。
これの個人的日記や家族への手紙という形を立ったためであり、彼自身があま
り、積極的に外に発表しなかったためである。自慢したくないと言った性格や
立場から来ることもあろう。もっと、評価されてしかるべきである。

0 件のコメント:
コメントを投稿