1.慶喜はひたすら江戸城内にあって謹慎、恭順の意を表した。政府側はこれに
対し、謝罪文のみでなく、その実効を要求した。
2.旧幕臣は反撃の態度を示す者多く、浅草寺に彰義隊を結成した。彰義隊は江
戸市内の警備に当たり、信用を得て、次第に勢力を増し、政府軍と衝突するこ
とがあった。
3.慶喜はこの情勢を見て、彼らを諌めるため江戸城を出て、上野・東叡山に蟄
居し、不敬な言動をしないよう諭した。
4.徳川家、特に慶喜にとって唯一頼りとなるのが勝であった。
山岡鉄太郎は慶喜が総身より謹慎の意を表しているのを見て、感激し、死を以
て慶喜の意を朝廷に伝えるため、捕虜の薩摩藩士・益満を伴い、単身で大総督
に会見することを勝に相談し、了解され、勝の手紙を持って西郷に面会を申し
入れた。
・勝の書状の内容:「不偏不党の立場で、公明正大であるよう」と西郷に願い出
た。
5.山岡は勝の文書を持ち、西郷に面会し、徳川家の恭順、謝罪の意を述べ、江
戸の情勢を伝え、穏便な処置を嘆願した。
6.これに対し西郷は以下を恭順の条件として示した。
・慶喜を恭順のかどで備前藩に預かりとする。
・江戸城を明け渡す。
・軍艦、武器一切を渡す。
・城内居住の家来を向島に移し、慎居すること。
・慶喜の妄動を助けた者を厳重に取り調べて謝罪の道を立てること。
・もし暴挙して手に余ったものは官軍をもって鎮めるべきこと。
7.これに対し、山岡は「慶喜の備前送りだけは承知できない」とした。
この理由は慶喜を備前に持って行かれては何をされてもどうにもならないから
であった。例えば、打ち首や切腹を命じられても抵抗できなかったからであっ
た。
8. 勝の出番:西郷と勝との会見:
・3月13日:西郷は江戸に入り、14日高輪の薩摩藩邸で勝と会見した。この会
議は、それぞれの側の最高責任者としての会見であり、如何に誠実に話し合う
かにより全てが決せられる重要な会議であった。また、両者がそれぞれを理解
していたことで江戸での市街戦を避けられたと言える。
・勝の出した条件:
① 慶喜が水戸に引退し、謹慎する。
② 江戸城を明け渡す。
③ 軍艦、武器を一切引き渡す。
④ 徳川家の領地・数百万石の処置:公正な朝廷の裁可を乞う。
・西郷は会見後、駿府に帰り、参謀会議を開き、結果として官軍全体に「江戸城
進撃を中止する」ことを発した。
当方のコメント:
1.山岡の取った行動は、慶喜が真に恭順し、蟄居してるのを見て、慶喜および
徳川家を何とか救いたいとの一心から自分の命を捨てて、西郷にお願いした。
同じ武士として、互いに共感したに違いない。
2.また、勝との会談では最後の詰めであり、言わばサミット会議である。しか
し、これもやはり互いに尊敬する者同士の会見であったと推察される。西郷は
弁が立つ方ではないから聞き役に回ったに違いない。勝は筋を通して、しかも、
「徳川家や慶喜への処置を公正に」と願っている。これは誰も否定できない事
柄で、武士として納得されたものと考える。しかし、勝は他方で、この会談の
準備のため江戸の寄力衆を集め、もし西郷が、勝の要望を聞き入れず、会談が
挫折した場合を考え、「モスクワでのナポレオン敗退作戦」と同じような作戦
を取ろうと考えていた。(かれはナポレオン戦争を知っていただけでなく、そ
の戦略を学び、大鳥圭介に打ち明け、かつ、新門辰五郎などを呼び、政府軍を
江戸中央に呼び込み、周囲を一気に焼き払う手立てを準備していた。)従って、
西郷へお願いと言いながら、態度として決して負けておらず、むしろ「やるな
ら、やって見ろ」との気構えで、また場面によって相手を威圧する位の態度で
臨んだことと思われる。外交交渉では力の政治学として通常使われる手段であ
る。相手を説得するのに無手勝流では難しい例でもあろう。現在の日本外交は
余程弁の立つ外交官か、(そのような人材はいるかは別にして)さもなくば、
武力を後ろ盾とする必要があろう。しかしながら、日本は憲法の制約がありこ
れが出来ない。アメリカを後ろ盾にしてきたと言えるが、今後は米国が常に正
しい判断が出来るとは言えず、多極化時代を反映して、国連を強化しこれを使
って行うことが良いと考える。
3.また、西郷とて、戊辰戦争が始まる前、江戸を混乱させるため、結構今日で
言うテロ行為を仕掛け、犯罪行為をやらせていた。これにより江戸の薩摩屋敷
に討ち入りとなり、戊辰戦争へと導かれていった。決して日本人としてほめら
れたものではない。西郷は武士道の観点から、山岡や勝の態度を見て(主君を
救う気持ちに打たれ)態度を決定したと思われる。良い話である。
これは、後に出てくる、函館戦争の初期、榎本軍への扱いとは大変異なってい
る。 同じ気持ちで動いたら函館戦争は起こらなかったであろう。
