I.江戸脱出:脱出はしたものの、早くも銚子沖で嵐に会い、損害を受けた。運が悪いと言える。寄せ集めのため、訓練が十分でなく操船も未熟であったのではないかと思われる。
1. 1868年8月19日:江戸脱出
潜伏させていた脱走旗本等は品川の海浜に集合した。一同は伝馬船で本船に送られた。
この内にはブリュネ等フランス軍人2名も乗船しており、総勢約2千名であった。
2.全艦8隻は出航し、その晩は館山沖に停泊した。ここで軍儀を開き、結論として箱館を占領し、そこを根拠地として政府軍に抵抗することで衆議一決した。
3.8月20日:江戸では品川沖から艦船8隻が突然いなくなったため、大騒ぎとなった。
新政府としては後の祭りであった。この晩、勝宛に榎本から脱走の趣旨を述べた手紙が届いた。
4.8月23日:榎本艦隊は銚子沖で暴風雨に会い、各船離散し、また下記の様に損傷した。
・ 開陽丸:舵を失う、マストを折った。
・ 回天丸:マストを折る。
・ 美化保丸:銚子沖で座礁し、破損した。乗員は一部溺死し、また一部は上陸 し、捕らえられた。
・ 咸臨丸:回天に綱で曳航されていたが綱が切れ、下田へ流された。
・幡竜丸:咸臨丸が流されたため、救助すべく追いかけて、清水港に入港した。 後から続いて咸臨丸も入港した。
5.9月11日:それぞれ修繕後、出航した。
しかし、咸臨丸は政府軍艦・富士山、飛竜、武蔵丸の艦隊と戦闘となり、乗員の多くは戦死し、または捕らえたれた。船は没収された。なお、戦死者はそのまま放置されたため、清水の次郎長が密かに葬った。
II.東北列藩同盟の状況
1868年9月8日政府は元号を明治と改めた。そして、9月20日明治天皇は京都を出発し、10月13日江戸へ入城した。また江戸を東京と改名した。
この時期、東北は以下のように、激烈な戦場であった。
・1868年9月4日:米沢藩降伏し、同盟は瓦解した。
・ 同年 9月27日:仙台藩降伏した。
・ 南部藩:恭順の意を表した。
・ 同年 9月22日:会津藩:孤城を守り続けたが、落城した。
・ 庄内藩は一人抵抗を続けていたが、落日の様相であった。榎本へ救援の依頼があり、これに応じるため、石巻に停泊中の千代田形丸と長崎丸を応援に出したが、政府軍の勢い強く、上陸できず、長崎丸は酒田沖で難破し、千代田形丸のみ11月11日箱館に帰還した。
9月27日:庄内藩降伏した。これで東北地方は完全に平定された。
III.榎本軍の北海道上陸
1. 旧幕の脱走部隊は戦況不利で失望し、仙台付近に集合しつつあった。また、仙台湾に榎本が率いる軍艦が到着し、下記の兵力が榎本の下に加わり、総勢約2500名となった。
・ 松平太郎:歩兵奉行
・ 竹中重固:陸軍奉行
・ 大鳥圭介、土方歳三:歩兵奉行並
・ 人見勝太郎、本多幸七郎:遊撃隊長
・ 古屋作左衛門:新撰組副長
・ 松平定敬:旧桑名藩主
・ 小笠原長行:旧唐津藩主
・ その他:フランス軍人:ブリューネ、マルティン他5名が参加した。
上記のように急膨張したため、歩兵の小銃を手当てする必要があり、外国船から物々交換で購入した。
さらに新規参入者と今後の方針を決定した。即ち、北海道へ行き、立てこもることとした。
奥州は未だ、新政府が十分及ばない地域であり、徳川影響が強く残り、榎本が蝦夷地へ立てこもるとの話を聞き、住民は涙を湛えてこれを聞き、古老の話として「これを食事中に聞いて思わず、茶碗を落として泣いた」と語られた。
2.蝦夷地へ上陸
・1868年10月9日:総員は仙台沖停泊中の5隻と仙台藩に貸していた大江丸および 鳳凰丸の計7隻に分乗し、東名浜を出航した。
・同年 10月12日:さらに、仙台脱走兵隊長・星拘太郎と率いる兵200名が参加 した。
そして、全員、全艦出帆した。
・同年10月13日:宮古湾へ入港し、薪や食料を積み込み、北海道へ向かった。
・当時北海道は明治政府治下にあり、弁天砲台は政府軍が守っていた。そこで、 榎本は戦闘を避けるため、箱館入港を止め、湾内の鷲の木に集結した。
・ここで、榎本は箱館府知事・清水侍従を経て朝廷に嘆願書を提出するため、人 見、本多等を上陸させて向かわせた。しかし、箱館府は使者を夜襲したため、 嘆願書は提出できなかった。
・10月21日:全軍、鷲の木に上陸した。上陸後、二手に分け、箱館へ向かった。
・10月23日:榎本軍、五稜郭および箱館を占領した。府知事・清水谷は藩兵と共 に外国船に乗って津軽に逃れた。
・10月26日:榎本等幹部は回天、幡竜に乗り、箱館へ入港した。直ちに、台場 を占領し、日章旗を掲げた。
・10月27日:秋田藩軍艦・高雄丸が榎本の動静を知らず、入港してきた。乗船 していた将兵を内地へ送り返し、軍艦は奪った。
・松前藩に使者を送って「今回の戦争の真意と戦争の不可避」を伝えたが返答 がなく、使者は斬殺された。
・10月28日:松前藩の非礼を怒った榎本達は松前への攻略を開始した。
即ち、土方は兵700名を率いて松前に向かって出動し、知内村で交戦した。
また、五稜郭、箱館も攻め、平定した。
・10月31日:榎本等は開陽丸の舵を修理し、鷲の木を出航し、翌11月1日箱館に 入港した。永井玄蕃を箱館奉行とした。
・松前藩との交戦:上記状況を耳にした清水谷府知事は青森にいる藩兵を箱館に 派遣した。
・1868年11月5日:土方軍、福山城に迫り、これを攻めた。
政府軍、良く戦うも土方軍に敗れた。松前城陥落した。
・榎本側は弘前藩に徳川脱艦の布告書を手渡し、奥羽越列藩に救済方を託して直 ちに箱館へ引き返した。これは榎本一流の敵情偵察を兼ねた作戦行動であった。
・11月11日:土方軍、福山城占領後、松前藩兵を追って江差に向かった。
榎本は開陽丸で江差に到着し、海兵を上陸させ、台場、倉庫を占領した。
・この夜、開陽丸は嵐を迎え、鎖が切れ、浅瀬に乗り上げた。
10日後には、開陽丸は破壊した。榎本軍にとって最大の損失であった。
・松前藩主や藩兵は熊石にのがれた。榎本軍はこの熊石を攻めた。
松前藩側は夜陰に乗じて、小船で津軽へ逃げ去った。藩兵500人は捕虜となっ た。
榎本側は全軍五稜郭に引き上げた。これにより榎本軍は蝦夷地を平定したこと になった。
コメント:榎本等は慶喜が駿府に送られるのを見届けて、準備よろしく、江戸を脱出したが、折から台風のシーズンであり、銚子沖に出た途端、開陽丸、咸臨丸等軒並み被害を受けた。本隊の榎本等は蝦夷の鷲の木に上陸し、戦闘の後、箱館を占領したが、最大の戦力である開陽丸を嵐でなくし、今後に不安を残した。榎本としては、海軍力では自分達が実力は上であると自負していたが、開陽丸をなくした今となっては失望の極みであったに違いない。しかし司令官として、体勢を立て直し、戦闘に備えることとなる。この間にも、榎本は新政府や天皇に対し、間接的に(弘前に逃げた松前藩主を通じ)「北海道旧徳川勢力によって開発することを認める」よう願い出ていた。同時に、「認めてくれなければ戦闘やむなし」として和戦両様の構えでいた。しかし、松前藩主はこれを拒否し、使者(松前藩の捕虜、即ち松前藩主のかつての部下)を惨殺した。
この頑な態度は(嘗ての部下を惨殺することはないのでは)、当方には理解できない。蝦夷から追われたことの腹いせにしか見えない。無論、藩主が朝廷に届けたとしても朝廷がこれを許すことは考えにくいことではある。和睦は断たれ、これから先、冬の寒さと戦いへの準備が始まる。
