前回、黒田や福沢の尽力で死罪を免れ、出獄することができた。出獄後、暫く
して、当時北海道開拓使長官であった黒田から、強い希望で彼の下で開拓使を
命ぜられた。初めは辞退してい
たが、最終的には承諾し、明治新政府役人として第一歩を踏み出すこととなる。
その15 明治新政府の下での活動
15.1 北海道開拓使時代
1. 北海道開拓の経緯
・1869年2月(箱館戦争前):岩倉具視は朝議で、ロシアに対する国防上の見地
から北海道開拓を急務として朝議する様建議された。
・1869年6月:ロシアが樺太南部・函泊を占拠した。ロシアは翌年さらに兵員を
増強し、暴挙は益々ひどくなった。
・1870年2月:このため政府は北海道と切り離し、樺太開拓使を置き、初代長官
に黒田を任命した。
・同年8月:黒田は樺太に行き、実情調査を行った。帰途、北海道に寄り、こち
らも実情調査を行った。結果、開拓使施設を設ける等の改革の必要性を痛感
し、帰郷後建議した。彼は「樺太は現状では3年しか保てない」とし、「鉱物、
化学に詳しい者を参加させる必要」を述べた。
・1873年6月4日:箱館戦争終結後、北海道開拓の詔勅が出た。
・7月8日:北海道開拓使が設置され、初代長官には鍋島がなった。この地位は
諸省卿(大臣並)と同じとされていた。ただし、鍋島は当時高齢のため辞退
した。このため、東久世を起用した。また、蝦夷を北海道と改称した。
・新政府は予算がないため、北辺に備える(対ロシア)と北海道開拓には「屯
田兵」制度(開拓民と兵隊を兼ねた制度)を用いることとした。
2. 榎本が釈放されて後、北海道開拓使となるまでの経過
・1873年1月:榎本が黒田と福沢の助命運動の結果、榎本他、5名の仲間が釈放
された。しかし、榎本等は思いがけなく釈放されたが、榎本にはこの後、二
君に仕える気持ちはなかった。ましてや、官途に就いて出世することなど考
えてもしなかった。
・当時、黒田は北海道開拓長官に任ぜられており、技術者としての榎本等を必
要としていた。
・1月12日:松平太郎以下4名が釈放後、黒田は早速、この5名を開拓使出張所に
呼び、開拓使奉仕へ出仕を命じた。同時に、彼等は長年入牢していたので、
「療養のため、当分出勤に及ばず」とした。(黒田の厚意であった)かれらは
喜んでこれを受けた。
・明治4年:黒田は当時、開拓使として北米からケプロンを招き、調査を開始す
るところであった。従って、外国人の外に日本人の技術者(技量と学問的素
養のある人材)を必要としていた。また、薩摩人は北海道には住みづらいた
め人材に事欠いていた。 榎本はこれにぴったりであった。
・そこで、黒田は開拓使として榎本の技量特に化学や鉱物等の知識を必要とし
た。榎本へ開拓使出仕を勧告した。しかし、榎本は、前記のような気持ちで
あったため、直ぐには応じなかった。また、かれにとって、北海道は古戦場
であり、そこへ行くことは憚られた。しかし、他の5名が既に開拓使に任ぜら
れ、北海道に着任していたので、心を引かれる気持ちもあった。(黒田の作
戦がうまかったと言うべき。)
3. 榎本の北海道開拓使としての活動
3.1 榎本と北海道との関係性
(1)彼が幼い頃、父は伊能忠敬に随行し蝦夷地を測量して歩いた。かれはこ
の話を父から聞いていた。
(2)18才の時、奉行堀織部の小姓として箱館に入った。奉行に付いて樺太ま
で探検をお供した。北辺の警備と開拓の重要さを認識していた。
(3)北辺の警備のためにも、海軍力強化の必要性を自覚し、その後、長崎海
軍伝習所へ入り、海軍の技術を身につけることとなった。
(4)オランダ留学し、軍事技術の他日本の産業振興のために必要な科学技術
を身につけた。
(5)前章で述べた通り、戊辰戦争で、主家の没落を目にし、いたたまれず、
主家や家臣を救うため、北海道へ脱出し、国土経営を願い出たが拒否され、
政府を相手に戦争を行い、結果として敗れ、この章に至った。
3.2 榎本の開拓使としての活動
(1)5月27日:横浜港を出発、30日函館港到着。
直ぐに、石油、石炭を調査を開始する。その他、地質(主に粘土)を調査す
る。また、鉛鉱石等、鉱物資源も精力的に調査開始する。
・空知炭田を発見
・イク士別石炭を調査し報告書提出。「幌内炭鉱」と呼ぶこととした。
(1) 函館測候所を設置する。
(2) 調査領域を広げ、石狩、日高、十勝、釧路、根室地方の物産および地
質を調査する。
(3) 別に、ケプロンが調査を開始した。黒田の方針で、榎本とは別に行う
こととした。ケプロン、石狩炭田が有望とした。
(5)黒田は技術に詳しい腹心として、榎本を局副総裁とする案を持っていた。
コメント:
(1)榎本他5名の幹部は解放されたことは望外の喜びであったことと思われる。
5名の幹部は黒田に呼ばれ、すぐに北海道開拓使を命じられ即刻、承諾する。
しばらく静養後、北海道に赴いた。しかし、榎本は直には承諾しなかった。
彼の心情からは当然であろう。このことは黒田は榎本がすぐには応じないこ
とを理解していたのであろう。従って、他の5名にまず、開拓使を命じ、間を
置 いて、彼に開拓使へ任命する一方、黒田の下で働くことや仲間がいること
で、 気持ちが揺らいだ事であろう。
ただし、時を坂上って、箱館戦争の前に、この役を命じられたら「望むとこ
ろとして」直ぐに受けたであろう。皮肉である。彼は将にそのように思った
に違いない。
(2)当時、ロシアは南に港を求め、南下したいとの欲求があり、占拠したり、
乱暴したり、狼藉を働いていた。黒田はほっと置けないと考えたが、外交交
渉ができる人物もいなかった。従って、開拓使の他、黒田の頭の中には榎本
を外交官として使いたいとの思惑もあったに違いない。榎本は後にロシアと
の外交交渉役として全権大使を任される。まさに彼は黒田の懐刀となる。こ
の後・終世、榎本との友情と信頼は仕事を通じて確立されていく。また、明
治政府ないし日本としても、彼以外に人はなく、彼に期待が大きかった。逆
に、彼が死罪となっていたら、誰がこれらの役を演じられたであろうかと暗
然たる思いとなる。
