2010/01/29

(その11)箱館戦争(中期)

箱館戦争・前記の最後で述べた通り、1868年11月から3月末の約5ヶ月間蝦夷に平和
が訪れた。この間、榎本は春からの攻撃の対策と蝦夷地経営に乗り出そうとしていた。
1.政府への蝦夷経営の了解工作
1868年11月初め:英、仏の軍艦は箱館へ入港した。両軍艦艦長が箱館運上所に出頭
し、両国領事を伴って、榎本、永井と会見した。やり取りは以下の通り。
・両艦長は書面にて「今より、蝦夷島を"ディファクトの政府"(現実に政権を握 っている
新政府)として承認している」旨を読み聞かせた。同時に貿易のこと につき「如何に取
り決めるか」を打診してきた。
 これに対して、榎本は下記回答した。これにより彼の考え方および交渉能力が 知る
ことが出来る。
①「新政府と言われては迷惑千万、この島は純然たる日本の天皇陛下の領土であり、
我々は忠良な、天皇の臣下である。独立など思いもよらない。貿易や国交
は我等の扱う事柄ではない。」と回答した。
②「では、何故、北海道へ渡来したのか」と理由を問われ、「生活に苦しんである旧・徳
川家臣に暮らしが立つようここに来て、開拓し、産業を興して皇国に
役立ちたい」また「戦いは望まないが、誤解のため交戦した。」とした。
③ 両艦長は同情し、明治政府に了解の斡旋の労を取りたいと話した。
12月20日:そこで、榎本は新政府への嘆願書を作り、両艦長へ託した。同趣旨
の嘆願書は英仏公使にも送られ、両公使は11日に政府に伝達した。
政府側対応:
① 両公使からの嘆願書は一応預かったが、14日にはこの書面を「不敬、不遜、
我国体に反するもの」と各公使に回答した。
② 両外国の立場:
外国は榎本軍に対し、中立を宣言し、同時に、箱館の各領事は榎本を同地の政
府として承認していた。また、外国からは一政府として礼遇を受けた。――日
本史上特筆すべきことである。

2.共和国政府の樹立
朝廷において嘆願書が無視されていることを知らない箱館では、以下のように行動
していた。
・1868年11月15日:蝦夷全島平定の祝賀祭を開催した。各国領事へ通達し、当日、
軍艦と砲台より101発の礼砲が発せられた。昼は艦船に五色の旗が翻えり、夜は 市
街に火灯を掲げて祝った。
・榎本は各領事や港内に停泊の英仏艦長等と会見して、箱館港の交易について従来
通りとし、港内の事務決済をすることを決定した。ただし、外国船には港税
を課した。(従来は無料であった。)
・仮の政府の樹立に着手した。(アメリカの制度に倣った。)
1) 仕官以上の者に入札(選挙)させて、下記の役員を決定した。
 総裁:榎本  副総裁:松平太郎  軍艦奉行:荒井郁之助
 海軍奉行:土方歳三   陸軍奉行:大鳥圭介
 開拓奉行:沢太郎左衛門 以下200人を室蘭へ移住させ開拓に当たらせた。
1. 蝦夷の経営(経済)
軍資金が不足し、困窮していた。
(1)兵隊の給料:安い。一人月1両1歩(今の額で千円)一方、物価が高かっ た:内地
からの物資、特に米や野菜等の生活必需品が途絶えたため。
(2)統率力:榎本軍の兵員数:3千500人(フランス人10名)
 この様な状況の中で、また寒冷地で勝つ見込みのない乏しい戦争で最後まで戦った
のは榎本の魅力と統率力によるものと思われる。
(3) 収入
 市内:財政難のため、住民から徹底的に金を絞り取った。このため市民の間では榎
本武揚をもじって「榎本・ブヨ(虫のこと)」と悪口を言われた位であっ た。また、賭博、
売春婦にも課税した。従って、榎本軍は必ずしも市民には評 判が良いとは言えなか
った。
通貨:二分金を鋳造して通用させた。いわば偽金であり他国には通用しなかった。
外国船:入港税徴収した。しかし、一部外国船から反対が出て、万国公法を  持ち
出して説得した。ただし、それでも納得せず、決闘を申し込まれ、受けて 立つとして
相手を納得させた経緯もある。 これにより彼の外国人へもコミュニ ケーション能力
が優れていたことが分かる。
(4)榎本の苦悩
 榎本の行動(蝦夷地支配)の大儀名文を如何に立てるか日夜苦悩していた。
(5)七重村開墾条約とガルトネル事件
 1)産業育成:
  このつかの間の平和の時期、榎本は前記の通り、政府軍の来攻に備えると同時
に、産業 育成のため、蝦夷地開拓を心がけた。
 ①武器の製造のため、必要とする砂鉄精錬所を箱館付近に作った。一つには、 
甲鉄艦対策として、甲板簿の鉄板を打ち破れる弾頭を作る必要があった。
 ②開拓は沢太郎左衛門を開拓奉行に据え、彼を室蘭に置き、屯田兵を指揮させた。
 2)ガルトネル事件
 ことは榎本が占領する以前から発生した。
 ①慶応3年(1867年)2月:杉浦・箱館奉行が弟のシー・ガルトネル(プロシャ副領事)
  と捕鯨について話し合った経験から同奉行は箱館付近の田畑試作を  頼んだ。
 その折、彼が自分の兄が欧式の農機具で開墾すれば日本にとって非常に有利にな
 ると説明し、土地の貸与を願い出た。
 (この時代、外国人が居留地以外の土地を借りることは禁じられていた。)
  彼は無理に頼んで、亀田村一角を借り、本国から農機具を輸入して農場を開いた。
 ②明治新政府時代:その後、幕府は倒れ、明治新政府となり、箱館は新政府統治下
 となった。ガルトネルは箱館府を説いて、農場を拡張し、また、箱館府  の一雇用
 人として七重村開墾開始の契約をした。

著者コメント
 蝦夷を占領するまでは、榎本軍は順調と言えた。しかし、厳しい冬を迎え、約3000
名の将兵を生活させ、かつ、春に攻めてくる政府軍に備えなければならない。財政は
厳しい、幕府から持ち出した銭は十分ではない。従って、住民から税金として金集め
をせねばならない。住民から見たら、榎本軍は厄介者としか写らなかったに違いない。
榎本軍は「榎本ブヨ」と揶揄されたにはこのことを意味する。それに、蝦夷(箱館)の
住民は東北地方と違い、幕府側の見方ではなかった。戦いまでに短期間であったの
で、住民としても榎本軍になじまなかったに違いない。後に出てくる箱館湾での海戦で
も、住民は、榎本軍が海中に張った防護索を切って、政府軍をおびき寄せたり、また
夜陰に乗じて榎本軍が使っていた砲台を釘付けして、政府軍に味方した。榎本軍とし
てはもっと住民への懐柔策を必要としたと思う。もっとも、住民は、開陽丸やその他海
軍力を失いつつある榎本軍を見放したといえる。
しかし、一方で、榎本は将来への蝦夷地での通商や産業育成を考え、沢太郎左衛門
を室蘭へ派遣して、開拓奉行としていた。また、新政府軍のあたらな軍艦・甲鉄艦へ
対抗するため、砲弾を強化する必要から、砲弾の改良を行うなど、軍事訓練を含め、
短期間ではあるが、やるべきことは行っていたといえる。単なる精神論や特攻精神で
はなかった。また、本気で、蝦夷地開拓を行うことを考えていたといえる。