2009/12/16

(その10):箱館戦争 前期 新政府(政府軍)の対応

明治1年(1868年)11月5日:朝議で「徳川家達に榎本等の軍を追討させ
れば、榎本もよもや主君へ弓を引くことはない、そして降伏するであろう」と
の意見で一致し、徳川家達に追討令が出た。家達(幼名・亀の助)は当時6歳
であり、徳川家として家達は幼少であるとして断った。

次に、慶喜を立てたが、万一、慶喜が榎本の手に入った場合、却って、
榎本の術中になるとしてこの案は取りやめた。

11月24日:結局、徳川昭武を出すこととした。しかし、実際は蝦夷地へは
行かなかった。同時に、青森では、諸藩の兵を集め、逆に榎本軍の来襲に備え
させた。

政府側は、陸軍は榎本に勝るが、海軍は榎本軍に適わなかった。従って 、甲
鉄艦を入手したかったが、米国は局外中立を保つとして艦を譲らなかった。

結論としてこの時期(冬)、蝦夷への攻撃は無理とした。
政府側、海、陸軍参謀・山田顕義に榎本軍の追討令を出す。
・11月7日:山田、長門、徳山より兵2000名を率いて青森へ到着した。冬は天
 候厳しく、明春に蝦夷攻撃を行うこととした。

当方のコメント:
1.無駄な戦争:箱館戦争(新政府側の問題)

榎本はあくまで、「天皇・朝廷に逆らうつもりはなかった。ただし、薩長の新
政府を嫌う旧幕府兵士としては、北の地・北海道をこれら兵士が開拓すること
で新日本の発展に貢献しよう」と考えていたことが嘆願書で伝わってくる。し
かし、朝廷はこれを跳ね除けて、攻めることに決定した。新政府として難しい
決定であるが、良く検討した結果とは言いがたい。言えることは、榎本らは謀
反人集団として相手にされていないことである。

 それ以前に、一度でも、勝と共に西郷と会っていたなら西郷と話は出来たで
あろう。西郷は榎本と言う人物を正確に評価できたであろう。後に、黒田が評
価したように出来たはずである。不幸にして、すれ違ってしまった。榎本側か
ら言えばこのことを、幾度も朝廷に嘆願書を申し入れたことであった。しかし、
その機会は与えられなかった。
朝廷が聴く耳を持っていればこの戦争は起こらずに済んだであろう。無駄に
人を殺傷することもなかったと言える。

2.榎本側の問題:
 不幸にして江戸を出航して直ぐに、嵐に再三見舞われ、咸臨丸などの艦船を
失うなど被害甚大であった。操船が未熟としかいえない。また如何に気象情報
天気予報の技術を得ることが重要であるかを思い知らされたことであろう。
この反省から、後に榎本は日本初の気象台を設置することとなる。

また、この後にも出てくる宮古湾での戦いでも、味方の船が宮古に到着するの
を待てず、攻め込み失敗している。互いの船の連絡手段を取る必要がある。無線
機は当時、日本に未だ輸入されていないが榎本はオランダで買っていた。先見の
明といえる。しかし、これらは彼の練習用に開陽丸に積んでいたが、実戦には
使われなかった。他の船に装置がなかったためと思われるが残念であったであろ
う。通信していれば日本で初の電信とし技術史に残ったことであろう。
後に、逓信大臣になった時、通信設備を整備することとなる。