2010/09/10

15.4 薩長政権下での活動

明治維新となって、新内閣制度ができる1885年までの間、榎本は新政府(薩長
政府)の下で、政治基盤を整える役職に任ぜられ、以下のような基盤作りを担う
こととなった。
1874年:海軍中将となる
1879年:地学会設立、副会長となる。
1880年:海軍卿となる
1882年:皇居造営事務副総裁
同年:駐清特命全権公使となる。

大きな役割は別項として述べる。

1.海軍卿となり、日本海令の草案作成
1880年:明治初年以降、海令の他も同じく、法律が整っていなかった。
特に海運は非常に幼稚で、無きに等しかった。このため、榎本が海軍卿時代、榎
本の知識を必要とされ、日本海令の草案を上呈した。
ただし、当時、かれの持つ海軍中将の肩書きはロシア全権公使として必要な肩書
きであり、彼は日本海軍の建設には極力避け、1年2ヶ月で辞した。

2. 皇居造営事務副総裁
1883年:近代的皇居の造営が計画の議題となり、その計画に当たり、ロシアの宮
殿を良く知っている榎本が皇居造営御用掛・副総裁に選ばれた。ただし、当時薩
長政府下では例え、有能な人物であっても、最高の地位に就くことは出来なかっ
た。即ち、政府は最も必要とする場合のみ最高の責任ある地位に就かせ、その後、
解任することを常とした。(常にピンチヒッターの役割)
榎本は自ら藩閥政治の中に入ってまでそれをしようとはしなかった。即ち自分の
経歴を意識していた。ただし、黒田の後ろ盾で各種重要ポストに就くこととなっ
た。
1883年9月:皇居造営事務副総裁を免じられた。清国駐在・特命全権公使として
家族を連れ中国に駐在となった。

3.気象学会と気象台設立
1878年代:内務省地理局の下、荒井郁介等を中心に日本人学者や技術者の手によ
り、気象観測事業を開始する。
1879年:地学協会設立、榎本は副会長に任ぜられる。
1883年:東京気象学会が成立す。荒井が主に動き、会誌「気象集誌」が発刊され
た。
1888年:中央気象台が開始された。
1889年:大日本気象学会として新発足する。
 会長:山田(元政府軍陸海軍参謀、箱館戦争で榎本と戦った。)
1893年:山田死去し、榎本が会長を引き継ぐ。
1896年:気象台は文部省に移管された。荒井が中央気象台、初代台長となる。


15.5 外務省(外務大臣補佐)と在シナ時代

1.外務大臣補佐として
1880年:寺嶋外務卿の下で、不平等条約改正に事業に当たる。
1882年:榎本駐清特命全権公使に任ぜられる。
   皇居造営事務副総裁にも任ぜられる。
1884年:朝鮮半島情勢:甲申事変
  朝鮮は当時、独立党(日本が支援する)と事大党(閔氏の一派で、中国が
 支援する)とが争い、次第に激しさを増していった。
12月:独立党の一派がクーデターを起し、王宮を占拠した。閔氏はこれを逃れ、
袁世凱(中国)に頼った。
日本人40名虐殺され、閔氏一族の政権を樹立する。(甲申事変と言う)
日本政府・外務卿・井上を特派全権大使として軍隊と伴に京城に派遣した。
清国も同時に、呉を隊長に陸海兵を付けて京城に送った。
1885年1月:井上と呉が談判し、清国は日本へ弔慰金と公使館修繕代を支払うこ
とで合意し、調印した。
1)天津条約締結
  中国は北洋大臣・李鴻章、日本代表は伊藤博文であった。榎本は裏方として
李鴻章と打ち合わせし、解決を助けた。
  初めは双方共、強気で妥協せず、伊藤は条件に合わなければ引き上げ、戦争
も辞さない覚悟であった。榎本はこれを相手にも伝え、説得を重ねた。
   最終的に下記3条件の決着をみた。この影には榎本と李鴻章との信頼関係
が働いてのことであった。影の立役者と言える。また、榎本は伊藤の交渉力をた
いしたことはないと判断していた。当時、伊藤に限らず、相手が弱いとみると、
高飛車に出るのが役人の常であった。一方、榎本はこの様な態度は取らず、語学
が出来たこともあるが、話し合いで、信頼関係を築き(無論駆け引きもあるが)交
渉を進める態度であった。Win-Winの関係を築いた。

1885年4月:中国と日本とで下記内容の条約を締結した。
・朝鮮から日本軍及び中国軍を撤退させることとする。
・両軍は朝鮮に軍事教官を派遣しないこととする。
・出兵の必要があれば、事前に交渉し、事変後撤退する。
 
これ以降の彼の外務大臣としての役割は下記に続くが、活躍内容を15.7章「
条約改正」に記す。
1891年:松方内閣で、外務大臣に就任。松方内閣が総辞職し、外務大臣を辞任。
1892年:条約改正調査委員会委員長に就任。

著者コメント:
榎本は薩長の明治政府に要請されて次々に外務大臣をはじめ役職に就任し、自ら
持てる経験と知識を新政府やシステム作りに邁進した。当時、役人とりわけ大臣
は名誉職とされ、何もせず(できずと言った方がよいが・・・。)えばっている
のが常であったが、榎本は率先して事に当たった。中国との交渉も伊藤が表向き
の代表となっているが実質は李鴻章と友情を勝ち得、取りまとめた。かれのコミ
ュニケーション能力(中国語も話せた)が発揮されたわけである。かれの日記で
「伊藤は大したことはない」と言い切っている。「長州人何するものぞ!(こい
つらに負けたけれど!・・・。)」と思ったことであろう。両者の教育程度を比
較すれば差は歴然であり、榎本が伊藤をあまり評価しなかったのも当然であろう。
また、榎本は薩摩人を好んだが、長州人は好きでなかったようだ。特に山県とは
合わなかった。

2010/08/26

15.4 薩長政権下での活動

明治維新となって、新内閣制度ができる1885年までの間、榎本は新政府(薩長
政府)の下で、政治基盤を整える役職に任ぜられ、以下のような基盤作りを担う
こととなった。
1874年:海軍中将となる
1879年:地学会設立、副会長となる。
1880年:海軍卿となる
1882年:皇居造営事務副総裁
同年:駐清特命全権公使となる。

大きな役割は別項として述べる。

1.海軍卿となり、日本海令の草案作成
1880年:明治初年以降、海令の他も同じく、法律が整っていなかった。
特に海運は非常に幼稚で、無きに等しかった。このため、榎本が海軍卿時代、榎
本の知識を必要とされ、日本海令の草案を上呈した。
ただし、当時、かれの持つ海軍中将の肩書きはロシア全権公使として必要な肩書
きであり、彼は日本海軍の建設には極力避け、1年2ヶ月で辞した。

2. 皇居造営事務副総裁
1883年:近代的皇居の造営が計画の議題となり、その計画に当たり、ロシアの宮
殿を良く知っている榎本が皇居造営御用掛・副総裁に選ばれた。ただし、当時薩
長政府下では例え、有能な人物であっても、最高の地位に就くことは出来なかっ
た。即ち、政府は最も必要とする場合のみ最高の責任ある地位に就かせ、その後、
解任することを常とした。(常にピンチヒッターの役割)
榎本は自ら藩閥政治の中に入ってまでそれをしようとはしなかった。即ち自分の
経歴を意識していた。ただし、黒田の後ろ盾で各種重要ポストに就くこととなっ
た。
1883年9月:皇居造営事務副総裁を免じられた。清国駐在・特命全権公使として
家族を連れ中国に駐在となった。

3.気象学会と気象台設立
1878年代:内務省地理局の下、荒井郁介等を中心に日本人学者や技術者の手によ
り、気象観測事業を開始する。
1879年:地学協会設立、榎本は副会長に任ぜられる。
1883年:東京気象学会が成立す。荒井が主に動き、会誌「気象集誌」が発刊され
た。
1888年:中央気象台が開始された。
1889年:大日本気象学会として新発足する。
 会長:山田(元政府軍陸海軍参謀、箱館戦争で榎本と戦った。)
1893年:山田死去し、榎本が会長を引き継ぐ。
1896年:気象台は文部省に移管された。荒井が中央気象台、初代台長となる。


15.5 外務省(外務大臣補佐)と在シナ時代

1.外務大臣補佐として
1880年:寺嶋外務卿の下で、不平等条約改正に事業に当たる。
1882年:榎本駐清特命全権公使に任ぜられる。
   皇居造営事務副総裁にも任ぜられる。
1884年:朝鮮半島情勢:甲申事変
  朝鮮は当時、独立党(日本が支援する)と事大党(閔氏の一派で、中国が
 支援する)とが争い、次第に激しさを増していった。
12月:独立党の一派がクーデターを起し、王宮を占拠した。閔氏はこれを逃れ、
袁世凱(中国)に頼った。
日本人40名虐殺され、閔氏一族の政権を樹立する。(甲申事変と言う)
日本政府・外務卿・井上を特派全権大使として軍隊と伴に京城に派遣した。
清国も同時に、呉を隊長に陸海兵を付けて京城に送った。
1885年1月:井上と呉が談判し、清国は日本へ弔慰金と公使館修繕代を支払うこ
とで合意し、調印した。
1)天津条約締結
  中国は北洋大臣・李鴻章、日本代表は伊藤博文であった。榎本は裏方として
李鴻章と打ち合わせし、解決を助けた。
  初めは双方共、強気で妥協せず、伊藤は条件に合わなければ引き上げ、戦争
も辞さない覚悟であった。榎本はこれを相手にも伝え、説得を重ねた。
   最終的に下記3条件の決着をみた。この影には榎本と李鴻章との信頼関係
が働いてのことであった。影の立役者と言える。また、榎本は伊藤の交渉力をた
いしたことはないと判断していた。当時、伊藤に限らず、相手が弱いとみると、
高飛車に出るのが役人の常であった。一方、榎本はこの様な態度は取らず、語学
が出来たこともあるが、話し合いで、信頼関係を築き(無論駆け引きもあるが)交
渉を進める態度であった。Win-Winの関係を築いた。

1885年4月:中国と日本とで下記内容の条約を締結した。
・朝鮮から日本軍及び中国軍を撤退させることとする。
・両軍は朝鮮に軍事教官を派遣しないこととする。
・出兵の必要があれば、事前に交渉し、事変後撤退する。
 
これ以降の彼の外務大臣としての役割は下記に続くが、活躍内容を15.7章「
条約改正」に記す。
1891年:松方内閣で、外務大臣に就任。松方内閣が総辞職し、外務大臣を辞任。
1892年:条約改正調査委員会委員長に就任。

著者コメント:
榎本は薩長の明治政府に要請されて次々に外務大臣をはじめ役職に就任し、自ら
持てる経験と知識を新政府やシステム作りに邁進した。当時、役人とりわけ大臣
は名誉職とされ、何もせず(できずと言った方がよいが・・・。)えばっている
のが常であったが、榎本は率先して事に当たった。中国との交渉も伊藤が表向き
の代表となっているが実質は李鴻章と友情を勝ち得、取りまとめた。かれのコミ
ュニケーション能力(中国語も話せた)が発揮されたわけである。かれの日記で
「伊藤は大したことはない」と言い切っている。「長州人何するものぞ!(こい
つらに負けたけれど!・・・。)」と思ったことであろう。両者の教育程度を比
較すれば差は歴然であり、榎本が伊藤をあまり評価しなかったのも当然であろう。
また、榎本は薩摩人を好んだが、長州人は好きでなかったようだ。特に山県とは
合わなかった。

2010/08/06

ヨーロッパ情勢とロシア・シベリアの調査旅行

榎本は「千島・樺太交換条約締結」のため、全権大使としてロシア滞在中、合間
を利用して精力的にヨーロッパ各地を視察して回った。究極は、ロシアからの帰
国をシベリア経由馬車で行ったことである。これもあまり知られていない事実で
あるが、彼の個人的日記として書かれたもので、外に出さなかったためである。
この言わばかれの探検を日記からダイジェストしてお伝えする。

今回の内容は先ず、ヨーロッパ各地の視察とロシアからのシベリア経由の帰国(
と言うより、ロシア視察旅行と言うべき)旅行の前半部をお伝えします。

4.西ヨーロッパ視察(1875年8月26日~1878年:ロ土戦争終結まで)
1875年8月26日:ベルリンに到着し、松本順の息子・松本桂太郎に会う。
8月 日:エッセンに到着し、クルップ製鉄所を訪問する。
    コブレンツに滞在し、クルップの鉱山を見学する。

その後、1878年まで(ロ土戦争が終わるまで)ロシアやヨーロッパに滞在して、
以下のように、ヨ―ロッパ情勢を見聞し、分析を行っていた。
(1)トルコ情勢:ロ土戦争を見聞し、分析した。
1876年5月トルコ皇帝・アブドラ・アジスが廃位され、アブドラ・ハシトII世が
即位した。これは無血革命であったが、皇帝は民主政治を行うと言っていたが、
これは見せかけであった。榎本はこれを見抜いていた。(皇帝はハレムで生活し
ており、とても民主政治などできないと見ていた。)
トルコ情勢を見て、彼は「国の基礎は財政的独立を保つことによって初めてでき
る」と確信した。「外国から借款によって国の財政を維持することは外国の植民
地化するものである。」と判断した。
1878年:ロ土間で、サンステファノ条約が成立した。榎本はこれまでをロシアに
滞在して、ウォッチしていた。家族にもそれを伝えていた。
(2)イギリスの動静:
 スエズ運河の証券を買い入れた動きを見た。
(3)榎本は英、仏、独、ロの各国新聞を読み、戦争の結果について考察し、ロ
シアの勝利を確信したが、「ロシアの経済情勢は問題あり」としていた。
(4)アメリカ大統領・グラントがキューバを併合した。これは大統領選挙に勝
つことを狙ってのことと分析していた。
(5)ロシア情勢:
ロシア国内で社会主義者の学生運動の発生を批判的に見ていた。榎本は未だ、
専制主義に対する社会主義的批判精神を理解できていなかった。

15.3 シベリア旅行

旅行目的:(彼自身の意図)
1.当時ロシアとは樺太問題でようやく解決したが、国内ではロシアを恐れる風
潮があり、このロシア恐怖症をほぐすには、シベリアを踏破して、その実情を極
める必要があると判断したこと。
2.また駐露特命全権大使を引き受けた理由もシベリア調査の意図があったため
であった。

1878年7月26日:ペテルスブルグを出発した。彼は「ロシアの実情を調査する目
的でアレキサンダー2世の許しを得てこれを行った。同行者は1名(大岡金太郎)
期間は約2ヶ月に及んだ。
榎本はこのシベリア旅行を単なる観察に止めなかった。旅先で見るべき場所はほ
とんど立ち寄って観察し、見物し、要路の人々とも全て接した。このため多忙な
毎日を過ごした。
また、毎日、日記を書いた。
旅行は全権公使と言う肩書きで旅行し、ロシア政府から先々の長官や司令官に鄭
重に扱うよう指示が出され、各地で歓待を受けた。
当時のロシアおよびシベリアは下記の状況であった
・シベリアには鉄道は敷設されていない。
・シベリアの大部分は荒地で主に政治犯などの流刑地であった。
・道路はあったが、未だ整備されず、凸凹が激しかった。
・ロシア特有の半有蓋馬車・タランタスを用い、ロシア政府の厚意でシベリア各
 県令を通過の折りには「鄭重に扱うよう」との電信を打ってもらっていた。
・実情調査は政治、経済、軍事に及び、下記項を調査した。調査は科学的で、専
 門的であり、気温は毎日3回測定していた。
1) シベリアの地質、地理、気象、植物、鉱物
2) 土地の人情、風俗、人種、言語、宗教、
3) 地勢、地質、地味 特に鉱業、砂金の採取
4) 産業一般、交易、政治、軍隊
筆者コメント:
1.ヨーロッパ視察について
(1)前記の通り、榎本は時間を作って精力的にヨーロッパ各地を視察した。同
  時に4ヶ国語の新聞を読み、自分なりに政治情勢など分析していた。本来、
 外務省が組織立って行うべきことであるが、当時の外務省は未だ実質的に存在
 していないため、かれがその全てを行っていたと言える。結果論として、彼の
 分析は正しいと言えるが、ただし、ロシアの社会主義運動についてはかれは理
 解できなかった。これは明治となった時代でもかれの歴史観はあまり変わって
 いないことを示している。当時の天皇制の日本の下では理解できないのは無理
 もないと言える。
(2)経済および産業視察でも、4日間かけてドイツのクルップ社を見学してい
 る。先ず、クルップの別荘に3日滞在し、製鋼所で大砲の製造を見学し、その
 後、クルップの鉱山まで見ている。彼は後に、(1896年・明治29年)浦賀船梁
 株式会社(後に、浦賀ドック、または浦賀造船所となる)を興すが、この視察
 が頭に描かれていたに違いない。ただし、これもこの時彼は農商務大臣であっ
 たため前面に出ず、荒井郁之助を立てて、日清戦争の後、日本の防衛力強化の
 必要性を考え起こしたものである。
(3)当時、外務省の役人は鹿鳴館のイメージ通り、華やかな舞台として外交面
 で働くイメージであったが、榎本は地味な裏方もやっていたことでもある。

2.ロシアからの帰国旅行について
(1)ロシア・シベリアの情報は当時、日本はおろかヨーロッパ、ロシア人でも
 知られていない地であり、情報もなかったに違いない。だからこそ、彼は行か
 なければと言う、使命感を抱いていたに違いない。内容も政治、産業、軍事お
 よび住民等、多岐にわたり、これを成し遂げた彼の精神的、肉体的タフさに驚
 く。
 残念なことは、この旅行について全くと言っていいほど日本では知られていな
 い。
 これの個人的日記や家族への手紙という形を立ったためであり、彼自身があま
 り、積極的に外に発表しなかったためである。自慢したくないと言った性格や
 立場から来ることもあろう。もっと、評価されてしかるべきである。

2010/07/16

15.2 ロシア滞在時代

前々回:黒田や福沢の尽力で死罪を免れ、出獄することができました。
前回は:出獄後、暫くして、当時北海道開拓使長官であった黒田から、強い希
望で彼の下の開拓使を命ぜられました。初めは辞退していましたが、最終的に
は承諾し、明治新政府役人として第一歩を踏み出すこととなりました。
今回はこの後、新政府からの要請で外務組織を作り、外国との通商条約を締結
したり、不平等条約を改正するため、彼が抜擢されます。

15.2 ロシア滞在時代

1.新政府、外交組織を新設する。
 1870年(明治3年):新政府は独立国として外国との関係を如何に築くかが問
われるため、下記のように外交組織を作った。
・外務省に大弁務使(特別全権公使)、
・中弁務使(弁理公使)、
・少弁務使(代理公使)
しかし、組織は作ったが、その職に当たる専門外交官がいなかった。当時、新
政府の役人は、維新成立に寄与した人材が選ばれており、多くは軍事的指揮や、
天下国家を論じる国士であった。このため外国との政治的折衝を重ね相手を納
得させる様な人物(政治家)に欠けていた。また当時、外国使節は日本の立場
や事情を考慮せずに傲慢に出るケースが多く、役人にとって、この様な外国使
節を相手にすることは、日本の役人が最も苦手とするところであった。

2. 新政府の外務省の職務
 新政府は下記の諸問題を取合えず、課題として取り組む必要があった。
(1)和親条約の改正の必要性
 国内的問題として、江戸時代末期に結ばれた不平等条約・和親条約を対等な
 条約として改正することが大きな課題であった。
(2)ロシアに対する脅威感
 サハリンでのロシア人の南下や暴力等、黒田が視察して、あと3年しか保てな
 いと判断した位、脅威を抱いていた。
(3)中国に対する脅威感
 その前に、中国や朝鮮との通商条約に基づく修交関係がなかった。無論、無
 条約のままで済まされないので、国際法上、対等な関係(独立国としての)
 を結ぶ必要があった。
 また、国内では征韓論など朝鮮に対しては威圧的態度であったが、朝鮮の背
 後に中国が存在するとする恐怖感があった。また、中国は「眠れる獅子」と
 しての恐怖感も存在していた。

3.カラフト問題の解決
 1869年:日本人は樺太・南部に、ロシアは樺太・北部に住んでいたが、ロシ
ア人は時折、南下し、占拠していた。日本はこれに対し、北緯50度以南の領有
を主張続けた。
日本政府としての対ロシア対応:
ロシア人の樺太における 日本人への態度は益々悪化した。例えば、カラフト
・函泊の日本人所有倉庫を放火し、暴行を働いた。
 この様な状況の樺太問題で政府は対応を急ぐ必要があると判断した。
 また、当時、黒田は北海道開拓がロシアの侵入の防波堤になるべきと意識し
 ていた。
新政府は以下のように対応することとした。
1)1869年:蝦夷地開拓の詔勅が出される。
 これはロシアの侵入に対する対策とするものであった。
2)新政府は「榎本の反乱軍がロシアと組むと大変なことになる」と心配した。
 このため、政府はロシアとは衝突を避ける態度をとった。
3)1870年:新政府は樺太開拓使を置いた。黒田を開拓使次官として調査を行
 わせた。 黒田は8月にカラフトに赴任し、調査を開始した。
4)黒田の調査結果:
・このままでは今後3年しかもたない。
・むしろ、北海道開拓に重点を置くべきとした。
・樺太開拓使を廃止し、北海道開拓と同じ行政管内で行わせることとした。

(1) 榎本のロシア駐在、ロシア特命全権大使就任
 箱館戦争終了後、新政府は先ずカラフト問題を解決すべく、下記の目的で榎
 本を起用することとした。
・カラフトでの雑居の状況でのトラブルを解決し、カラフトの帰属を決定する。
・その上で、カラフト移民500数十人を北海道に移転させる。
・カラフトを千島列島と交換することを腹案とした。
1874年:前記カラフト問題解決のため、黒田の強力な推薦により、ロシア交渉
に向けて、榎本がロシア特命大使に選ばれ、かつ対外的"箔"を付けるため彼は
海軍中将に任ぜられた。これは、当時ヨーロッパでは外交官の社交界では将官
の位が重視されたためである。
一方、かれは二度と海軍に入らないと考えていた彼にとっては皮肉である。ま
た、派遣される榎本の意図は「先ず、ロシアに対する日本人の恐怖心をほぐす
には、シベリアを踏破して、その実情を究めることが必要」と考えた。駐露特
命全権大使を引き受けた理由もシベリア調査の意図があったからである。
大使就任後直ちにロシアに向かう。全権一行、インド洋経由、スエズ運河を経
由しベニスから汽車でパリ、オランダ経由してロシアに入った。
1874年5月28日:榎本はベルリンへ入った。その後、ロシア入りした。
同年7月18日:ロシア・アレキサンダー2世に謁見する。

―以降5年間、1882年まで、ロシアに滞在し、ロシア国内の実情を目撃した。―

1874年6月22日:第一回会談:ロシア側:スツレモーレフ(外務省アジア局長)
との顔合わせ。
8月第2回交渉:本格的交渉を行う。
11月:両国の意見が明示された。
その後、数か月間、数回交渉を行い、榎本は政府訓令の基に千島列島との交換
を承諾し、条約締結に漕ぎ着けた。
1875年5月:セント・ぺテルスブルグで樺太・千島交換条約に調印した。
1875年8月22日:日本政府、東京で樺太・千島交換条約を批准した。
ただし、国内では榎本の弱腰外交として非難された。
ロシアでは榎本はアレキサンダー2世に厚遇された。また勲章を授与された。
1875年11月3日:ロシアで日本公使館完成時、ロシアの諸大臣を招いて祝宴を開
いた。

参考:アレキサンダー2世・治世下でのロシアの出来事:
・1855年ツアーに即位、クリミア戦争で敗北し、屈辱的講和をむすぶこととな
 った。しかし、その後、在位27年に及ぶ。ロマノフ王朝の近代的名君として
 評価されている。
・1861年:農奴解放を行った。(ロシア農業の近代化の第1歩)
・刑事犯と民事犯を行政から分離し司法(裁判所)に移して明朗化を計った。
・教育を盛んにし、鉄道を敷設し、鉱山開発を行う等産業の近代化を進めた。
・1873年:ドイツ、オーストリアの皇帝と三帝同盟を締結し、イギリスの大陸
 への影響を阻止した。
・1877年トルコと戦争し、勝利した。サンステファの条約締結(この時期、こ
 れらを榎本は目撃している)

著者コメント:
先ず、榎本が何故、帰国するに当たり、馬車でシベリア横断することを思い付
き、皇帝に願い出て、交渉し、許可をもらい、実行に移す。この発想、交渉力
と行動力に驚嘆する。

現在、外交官にこれをやれと言ったらできるだろうか?できない理由を探し、
交渉したが、拒否されたと言ってやらないであろう。

下記2点を考える。
1.なぜ、榎本はシベリア経由の帰国を考え、実行したのか?
2.榎本が何故アレキサンダー2世から好まれ、厚遇を受け、さらにシベリア経
 由帰国を許したのか?

・1項に対する意見(考え):
 かれはロシアとの交渉に当たり、日本国内にロシア恐怖症があることを懸念
していた。これを払拭したいと考えて、実情を調査すべきと判断した。旅行中、
皇帝の許可証が各種調査に役立ったことは言うまでもない。
・2項に対する意見(考え):
 皇帝から榎本は交渉を通じて信頼され、最後には勲章まで授与された。
この信頼関係が交渉の上でも、また、旅行の許可を得る上でも決定的となっと
考える。
さらに細かく見ると下記が挙げられる。
1)榎本の語学力(ロシア語をも話せた)で率直に意見を言えた。
2)榎本の人柄(日本人にしては、背が高く、威厳があった。しかし愛想よく
 誰にでも好かれた。)
3)オランダ留学の経験から、外国人との接触に慣れしていた。相手への配慮
 や、考え方を理解していた。
4)決してロシア人を恐れず、対等にふるまった。これができた人であった。

2010/06/16

その15  明治新政府の下での活動

前回、黒田や福沢の尽力で死罪を免れ、出獄することができた。出獄後、暫く
して、当時北海道開拓使長官であった黒田から、強い希望で彼の下で開拓使を
命ぜられた。初めは辞退してい
たが、最終的には承諾し、明治新政府役人として第一歩を踏み出すこととなる。

その15  明治新政府の下での活動

15.1 北海道開拓使時代

1. 北海道開拓の経緯
・1869年2月(箱館戦争前):岩倉具視は朝議で、ロシアに対する国防上の見地
から北海道開拓を急務として朝議する様建議された。
・1869年6月:ロシアが樺太南部・函泊を占拠した。ロシアは翌年さらに兵員を
増強し、暴挙は益々ひどくなった。
・1870年2月:このため政府は北海道と切り離し、樺太開拓使を置き、初代長官
に黒田を任命した。
・同年8月:黒田は樺太に行き、実情調査を行った。帰途、北海道に寄り、こち
らも実情調査を行った。結果、開拓使施設を設ける等の改革の必要性を痛感
し、帰郷後建議した。彼は「樺太は現状では3年しか保てない」とし、「鉱物、
化学に詳しい者を参加させる必要」を述べた。
・1873年6月4日:箱館戦争終結後、北海道開拓の詔勅が出た。
・7月8日:北海道開拓使が設置され、初代長官には鍋島がなった。この地位は
諸省卿(大臣並)と同じとされていた。ただし、鍋島は当時高齢のため辞退
した。このため、東久世を起用した。また、蝦夷を北海道と改称した。
・新政府は予算がないため、北辺に備える(対ロシア)と北海道開拓には「屯
田兵」制度(開拓民と兵隊を兼ねた制度)を用いることとした。

2. 榎本が釈放されて後、北海道開拓使となるまでの経過
・1873年1月:榎本が黒田と福沢の助命運動の結果、榎本他、5名の仲間が釈放
された。しかし、榎本等は思いがけなく釈放されたが、榎本にはこの後、二
君に仕える気持ちはなかった。ましてや、官途に就いて出世することなど考
えてもしなかった。
・当時、黒田は北海道開拓長官に任ぜられており、技術者としての榎本等を必
要としていた。
・1月12日:松平太郎以下4名が釈放後、黒田は早速、この5名を開拓使出張所に
呼び、開拓使奉仕へ出仕を命じた。同時に、彼等は長年入牢していたので、
「療養のため、当分出勤に及ばず」とした。(黒田の厚意であった)かれらは
喜んでこれを受けた。
・明治4年:黒田は当時、開拓使として北米からケプロンを招き、調査を開始す
るところであった。従って、外国人の外に日本人の技術者(技量と学問的素
養のある人材)を必要としていた。また、薩摩人は北海道には住みづらいた
め人材に事欠いていた。 榎本はこれにぴったりであった。
・そこで、黒田は開拓使として榎本の技量特に化学や鉱物等の知識を必要とし
た。榎本へ開拓使出仕を勧告した。しかし、榎本は、前記のような気持ちで
あったため、直ぐには応じなかった。また、かれにとって、北海道は古戦場
であり、そこへ行くことは憚られた。しかし、他の5名が既に開拓使に任ぜら
れ、北海道に着任していたので、心を引かれる気持ちもあった。(黒田の作
戦がうまかったと言うべき。)

3. 榎本の北海道開拓使としての活動
3.1 榎本と北海道との関係性

(1)彼が幼い頃、父は伊能忠敬に随行し蝦夷地を測量して歩いた。かれはこ
の話を父から聞いていた。
(2)18才の時、奉行堀織部の小姓として箱館に入った。奉行に付いて樺太ま
で探検をお供した。北辺の警備と開拓の重要さを認識していた。
(3)北辺の警備のためにも、海軍力強化の必要性を自覚し、その後、長崎海
軍伝習所へ入り、海軍の技術を身につけることとなった。
(4)オランダ留学し、軍事技術の他日本の産業振興のために必要な科学技術
を身につけた。
(5)前章で述べた通り、戊辰戦争で、主家の没落を目にし、いたたまれず、
主家や家臣を救うため、北海道へ脱出し、国土経営を願い出たが拒否され、
政府を相手に戦争を行い、結果として敗れ、この章に至った。

3.2 榎本の開拓使としての活動
(1)5月27日:横浜港を出発、30日函館港到着。
  直ぐに、石油、石炭を調査を開始する。その他、地質(主に粘土)を調査す
る。また、鉛鉱石等、鉱物資源も精力的に調査開始する。
 ・空知炭田を発見
 ・イク士別石炭を調査し報告書提出。「幌内炭鉱」と呼ぶこととした。
(1) 函館測候所を設置する。
(2) 調査領域を広げ、石狩、日高、十勝、釧路、根室地方の物産および地
質を調査する。
(3) 別に、ケプロンが調査を開始した。黒田の方針で、榎本とは別に行う
こととした。ケプロン、石狩炭田が有望とした。
(5)黒田は技術に詳しい腹心として、榎本を局副総裁とする案を持っていた。

コメント:
(1)榎本他5名の幹部は解放されたことは望外の喜びであったことと思われる。
 5名の幹部は黒田に呼ばれ、すぐに北海道開拓使を命じられ即刻、承諾する。
しばらく静養後、北海道に赴いた。しかし、榎本は直には承諾しなかった。
彼の心情からは当然であろう。このことは黒田は榎本がすぐには応じないこ
 とを理解していたのであろう。従って、他の5名にまず、開拓使を命じ、間を
 置 いて、彼に開拓使へ任命する一方、黒田の下で働くことや仲間がいること
 で、 気持ちが揺らいだ事であろう。
 ただし、時を坂上って、箱館戦争の前に、この役を命じられたら「望むとこ
 ろとして」直ぐに受けたであろう。皮肉である。彼は将にそのように思った
 に違いない。
(2)当時、ロシアは南に港を求め、南下したいとの欲求があり、占拠したり、
 乱暴したり、狼藉を働いていた。黒田はほっと置けないと考えたが、外交交
 渉ができる人物もいなかった。従って、開拓使の他、黒田の頭の中には榎本
 を外交官として使いたいとの思惑もあったに違いない。榎本は後にロシアと
 の外交交渉役として全権大使を任される。まさに彼は黒田の懐刀となる。こ
 の後・終世、榎本との友情と信頼は仕事を通じて確立されていく。また、明
 治政府ないし日本としても、彼以外に人はなく、彼に期待が大きかった。逆
 に、彼が死罪となっていたら、誰がこれらの役を演じられたであろうかと暗
 然たる思いとなる。

2010/05/28

その14:獄中時代

お話は榎本以下幹部5名が牢屋に入れられ、2年間を過ごすことになりました。
箱館戦争の主犯であり通常であれば死刑は免れられない。しかし、敵将である黒
田清隆と福沢諭吉の助命嘆願により、出獄を許された。今回は、この間の経緯を
主に述べることとします。

その14:獄中時代

1.首謀者としての入牢生活:明治2年(解放されるまで、2年半居たこととな
る)箱館戦争の首謀者としてまた、朝敵として重罪犯人として入牢を申し付けら
れたのは下記の10名であった。
・軍首脳:榎本武揚、松平太郎、大鳥圭介、永井玄蕃、荒井郁之助、沢太郎左
衛門、松岡盤吉
・その他:渋沢誠一郎、佐藤雄之助、仙石円次郎
・辰口牢獄:現在の丸の内・和田倉門の外濠に面した所にあった。
(1)牢名主・榎本の生活:
・各旧幹部は別々の部屋に入れられた。ただし、一般犯罪者と一緒であった。
入牢した時、旧牢名主から「しゃばでは、どんな悪事を働いたか?」と問われ、
「箱館戦争の榎本じゃ」と応えた。一同驚き、その晩から榎本の肩や腰をもむ
やら、食事の世話をするやらで「獄中楽をした」と彼は家族に語っていた。
・彼は同時に彼等の面倒をみて、常にいたわってやっていた。例えば、彼等幹
部同士英語や漢詩を使って連絡を取り合い、同じ牢内罪人が事情により気の毒
な場合、救済に動いた。
・獄中家族にこまめに手紙を送った。表現も当時の武家社会の人としては考え
られないほど率直で暖かくこまやかであった。かれの人間性を彷彿とさせる。
・ただし、家族は国賊の家族として決して楽ではなかったが、彼は書物と半紙
を差し入れてもらうよう頼んでいた。
・彼はやがて、自分が死罪に処せられるとわかっていても、自分の得た知識を
書き物にしてそれを家族に送り、家族の生計や、日本の将来の産業に役立てよ
うとしていた。
・彼の獄中での起業の提案:
1) 大規模な鶏卵、鴨卵の人工孵化器製法
2) ガルファニー鍍金、鍍銀の方法
3) 藍の取り方、新式の養蚕法
4) ガラス鏡の製法
5) 硫酸の製法
6) ブランディの製法
7) その他
さらに、以上の製造方法などを紙で模型を作っていた。
しかし、これら手紙が世間に発表されるに及び問題となり、周旋した役人らが免
職になるなど、牢内でも厳しく取り締まりとなった。

1. 助命運動
(1) 福沢諭吉と榎本の関係:
この2人の関係は榎本と黒田ほどの密接な関係ではなかった。ただし、下記の
つながりで福沢は助命運動に助力してくれた。
1)榎本の母系と福沢の妻との実家は遠縁であった。しかし、榎本と福沢とは直
に交際はなかった。
2)福沢は榎本の赦免に関して、かなり重要な働きをするようになった。このい
きさつは以下のようである。
・榎本の妹婿に江連加賀守尭則がいた。かれは旧幕府時代、外国奉行を務めてい
た。 一方で、福沢は外国方の翻訳をしていた関係で江連と親しい間柄であっ
た。
・榎本が箱館戦争を起したため、家族は東京を離れざるを得なくなった。このた
め、家族は東京を引き払い、駿府の江連家に世話になっていた。
・箱館戦争後、榎本が入牢した後、家族が榎本の様子を知りたがったが、東京の
親戚は周囲を気遣い役に立たず、江連が福沢に頼み、様子を聞き、福沢を通じ
て情報を得て、また、差し入れ等を行った。
・これ以降、直接家族が榎本に会ったり、差し入れできるようになった。
・榎本は一時、重病になったことがあり、彼の母の代わりに福沢は面会の嘆願書
を書き、姉に清書をさせて兵部署に提出した。翌日許可がでた。これにより、
母は榎本と面会できた。一年ぶりの面会であった。双方うれしかったであろう。
しかし、当時、榎本は重病であったため、日記には記述がなかった。
・明治4年5月以降:母が病気となり、8月26日に母は死去した。この悲報を受け
取った榎本は悲痛きわまるものがあったと言う。(姉宛の手紙に詳しい)
・これ以降、榎本は獄中から必要な書物を差し入れてもらうよう頼んだ。これを
受けて福沢に頼み、彼が手配して入手し、差し入れた。ただし、化学の本は福
沢は詳しくないため、内容が乏しく、榎本は不満であった。
・母亡き後も、福沢は助命運動を続けた。
(2) 榎本助命運動
榎本の判決決定までの経緯は下記のようであった。
1)長州人(木戸、大村等)は強硬論者で「壮年の榎本をこのまま飼い殺しにす
るのは厄介だから斬首せよ!」との意見であった。ただし、木戸は必ずしも強
硬ではなかったが、長州人として柔軟な意見を言えなかった。そこで、木戸 は
廟堂では大勢を薩摩人が占めるので意識的にこの意見を言わせ、薩人から反対
論が出ることを期待した。この議論は明治4年岩倉一行の遣米使節まで続いた。
その出発前に、米国で榎本の処分について質問が出て、「榎本斬首の刑に処し
たら、日本の恥である」と言う議論が出て、結論が出せなかった。
2)一方、福沢は黒田と相談して、釈放運動を行った。そして、米国の南北戦争
の例を引き、「南軍の巨魁を国事犯なるが故に殺さなかった。」これは文明国
の美風であるとした。
3)また、黒田は福沢に「海律全書」を翻訳依頼し、福沢は4,5ページ訳して、
「これ以降は実際に学んだ榎本に依頼すべき」とした。黒田は益々、榎本の助
命に動く動機ともなった。
4)さらに黒田は「彼が蝦夷に行ったのは御国のために尽くそうとしたからで、
減刑すべき。」と結論した。そして、「彼を斬るのであれば、自分の首をはね
てから斬れ」と言って詰め寄った。この時、黒田はこの意思を示すため、頭を
丸坊主となった。
5)一方、木戸は「榎本の如き人間を赦すことは、虎を野に放す如きであるから、
断じて赦せない」と主張した。(先刻の記述と矛盾するが・・・。)
6)結果、最後に西郷に裁断を乞うことになった。西郷は「榎本を斬首するのは
もっての他である。彼が北海道に行ったのは徳川武士を率いて(即ち、陛下の
赤子を)救い、それによって大御心を安んじるためである。彼こそ、憂国の士
である。」とした。そして、1日も早く優遇して、新政府に重用すれば、必ず、
御国のために人物となる故、釈放せよ」と主張した。これにより、榎本の赦免
が決定した。
(3)榎本等の釈放
榎本は自分の命は捨てていたので、後に何か家族や日本の産業育成のために役
立つよう、一心に牢屋で働いていた。
1)1873年(明治5年)1月2日:妻・たつ、姉宛の手紙に仲間が一緒に広間に暮
らすことになること。正月にビールと新聞が送られた」ことを伝えた。
2)同年正月6日:榎本、松平太郎、荒井郁之助、永井玄蕃、大鳥圭介、沢太郎
左衛門が赦免された。

当方のコメント:
(1)榎本他5名の首謀者達は「死罪は免れない」と心していたので、入牢後は、
心の整理ができ、至って心穏やかであったようである。榎本の場合、余生を(死
罪となるまで)家族の後の生活のため、また、日本の産業育成の一助となればと
入手しにくい紙や筆を家族に入れさせ書いている。また、福沢に依頼して、化
学や鉱物等の外国図書を入手してもらい参考としていた。化学については榎本
の方が知識があり、(当時日本では彼が最高位であったと判断される)差し入れ
られた書物に不満を述べていた位である。紙に書くといっても明かりのない所
で苦労したことと推察される。
(2)内容は今日では大したものとは思えないが家内工業向きの起業の情報が中
心であった。模型を作ったりしたとの事で、彼は大変な努力である。囚人とは
とても思えない入牢生活であった。精神的には楽しかったに違いない。
(3)一方、薩長側の裁判の判決(当時は裁判制度がなかったので、廟堂と称す
る薩長トップの合議制)は長州側は理論派が多く、死罪と決めていたが、薩摩
側は黒田の運動もあって、解放論が多かった。最後はやはり西郷の一言で決ま
ったようだ。
本格的裁判制度であれば、逆に、有罪となり、反逆罪として終身刑は免れなか
ったと思われるが、逆に裁判制度がなかったが故に彼等を生かすことが出来た
と言える。
(4)また西郷の一言が最後に有効に働いたことは重要である。箱館戦争を起し
てなお、榎本が嘆願書を送っていたことが漸く理解されたこととなる。嘆願書
がその時受け入れられていれば戦争にならなかったと思われる。無駄に多くの
命が奪われたことは残念である。多分、榎本と西郷が面会する場面が(例えば、
西郷と勝との面談の時でも)あれば西郷の意見で希望は叶えられたと思われる。

2010/04/06

 その13(箱館戦争:終結(榎本軍の降伏))

さすがに、軍艦を失くした榎本軍は最後まで政府軍に抵抗するも、圧倒的数に押
され、残るは3拠点のみとなった。

1. 最後の決戦まで:
(1)榎本軍と政府軍とのやり取り:
・5月12日:この日夕刻、黒田は箱館病院に使者を送り、榎本等の降伏につい相
 談した。病院長・高松凌雲と病院係・小野がその仲介役を果すこととなった。
・5月13日:黒田からの降伏勧告書「天朝の思召は寛大である故、無益な抵抗を
 止める」との趣旨の勧降書を五稜郭の榎本と松平に送り、また、弁天砲台へも
 田島を使者として永井玄蕃等に同様の趣旨の降伏を勧めた。田島はまた、直に
 榎本にも会った。
・5月14日:榎本はその厚意に謝したが、降伏には応じなかった。この時、面接
 した田島は「榎本の人となりを壮」とし、涙を流し「惜しむべし、かくの如き
 士を瓦と共に砕かれんことを」と述べて別れを惜しんだ。
 一方、榎本は「明日また軍門にてお出会いすべし」と言って去った。永井も弁
 天砲台へ帰った。榎本は黒田に対して下記の趣旨の返書を送った。
返書の内容:
・たとえ、天朝が寛大であっても、今更降伏できないのは武士として当然であり、
 当初の願いが聞き入れらたなら、自分はどのような厳罰を受けても良い覚悟で
 ある。
・榎本がオランダ留学中、苦心した「海律全書」を日本の海軍の将来のために役
 立てたいのでこれを寄贈する。」と申し出た。

(2)榎本軍側内部の動き:
この後、榎本は「海律全書」を無事、黒田へ渡したことで榎本は「全てが終わっ
た。」とし、「今や華々しく最後の一戦を試み、潔く散るのみ」と考えた。そし
て次の動きに出た。
・5月13日田島との会見後、五稜郭に戻った榎本は政府軍の許可を得て、部下の
 内、傷病兵250名に金子を与え、湯川村に退かせ、そこで温泉治療を受けさせ
 た。また、年少者に向かっては前途ある身であるので、帰順し、皇国のために
 尽くすよう勧めた。
 この時、15才の田村銀介が立って反論したので、彼を許し決戦することを決意
 した。
・一方には、その夜、勝見込みがないと恐怖した兵士は密かに筏を作り、五稜郭
 の濠を渡り、降伏するものがあった。この後、榎本は最後の決戦に腹を決めた
 者のみで決戦することとして、脱走者のために門を開けて逃げさせた。


(1) 最後の決戦の状況
5月15日:政府軍は海陸合わせて弁天砲台、千代が嶽および五稜郭を総攻撃した。
・弁天砲台:永井以下の将兵は数日来の戦闘のため、食糧が尽き、兵卒が疲労し
 たので、衆議の結果、降伏を申し出た。ただし、五稜郭には連絡できず、知ら
 されなかった。
・千代が嶽:政府軍の砲火に屈せず、老将・中島三郎助は2人の息子と共に敵陣
 に討ち入り、戦死した。そして、翌朝千代が嶽は陥落した。残兵は五稜郭に逃
 げた。
・残る五稜郭:決戦体勢でいたところ、黒田は使者を派遣し、何時に戦闘開始す
 るか、また、弾薬や兵糧が不足であったら、送っても良いと申し出た。榎本は
 感謝しつつも、これを拒否した。
・さらに、黒田は前日、榎本が贈った「海律全書」の返礼として酒5樽に書状を
 添えて、榎本に贈り、榎本の好意に報いた。
・榎本は贈られた酒樽を開け、将兵の労をねぎらい、また決別の杯を交わした。

  この時、榎本は討ち死にを覚悟であったが、将兵は疲れ果て、気力のないの
を見た時、榎本は彼等を率いて決戦することの無益を悟った。

2. 降伏
(1) 榎本軍の動き:上記の考えの結果、かれは使者を使って密かに降伏の書
を伝えた。
・同時に、彼は自ら一室に退き、小姓・大塚に介錯を命じ、切腹をするため、腹
 に刃を当てたが、大塚の必死の押さえと騒ぎに駆けつけた者たちに阻まれ自刃
 を果たすことができなかった。この時、止めた大塚は白刃を素手で握り締めた。
 榎本はこれを引き抜き続行しようとしたため、大塚の手から血しぶきが飛んだ
 と言う。本気で死ぬ気であったことを物語る。
・この騒ぎの後、松平、大鳥、荒井の三将を集め、今の場合「降伏が大義に通ず
 る」理由を話し合った。結果「幕末に意義有らしめるため、我々が武士の面目
 に固執するならば、は八百の壮者は喜んで全滅してくれる。・・・。しかし、
 この戦意を失い、疲れ果てた限りある兵の命を顧みることなく六十余州の大敵
 に当たるは誠の武士が取るべき道でない。・・・・。すべからく我等が面目を
 犠牲にしてわれ等の外は全て無罪解放の条件をもって官軍に降り、われ等は謹
 んで重き天裁を仰ぐのが至当である。」として了解がついた。
・その後、将兵一同にこの旨を告げ、彼等を諭した。彼等は騒然となって、直ぐ
 には彼等は応じなかったが、幹部の誠意ある説得に最終的には悟り、一同号泣
 してその意に従った。
・榎本は早速使者を黒田の元に送り「明朝6時までに攻撃を中止。」を乞うた。
・翌日その時刻に榎本他幹部4名が出頭して降伏を申し出た。
・午後2時には政府軍への武器引渡しを終え、彼らは五稜郭を出発し、網かごに
 乗せられ、箱館に連行された。この間武士の扱いとして帯刀を許され箱館の政
 府軍本陣に着いて刀を手渡した。

当方のコメント:
この項の最初に述べた通り、武士道に則り、双方戦い、ついに敗れた榎本軍は、
初めて武士としての扱いを黒田から受けた。色々戦闘場面で武士たる者として印
象強い場面はあるが、やはり最後の降伏の榎本と黒田のやり取りは美談であり、
お互いに友情を感じて終生忘れることはできないであろう。これが後に、黒田の
働きで、榎本が生きながらえることとなる。
このことは、お互い日本人であるからできたことであると思う。将棋の駒にたと
えると捕獲した駒を生かして使う文化だからできたことと思う。
またこれは薩摩の黒田だからできたことと言える。(この影には西郷があった。
)人情に厚く、人間の心理を読める黒田だからできたことともいえる。そして結
果数名の命が救われ、後の新政府(北が苦手な薩・長)にとって、北海道開拓等
に向けて、かけがいのない人材を得たこととなる。