お話は榎本以下幹部5名が牢屋に入れられ、2年間を過ごすことになりました。
箱館戦争の主犯であり通常であれば死刑は免れられない。しかし、敵将である黒
田清隆と福沢諭吉の助命嘆願により、出獄を許された。今回は、この間の経緯を
主に述べることとします。
その14:獄中時代
1.首謀者としての入牢生活:明治2年(解放されるまで、2年半居たこととな
る)箱館戦争の首謀者としてまた、朝敵として重罪犯人として入牢を申し付けら
れたのは下記の10名であった。
・軍首脳:榎本武揚、松平太郎、大鳥圭介、永井玄蕃、荒井郁之助、沢太郎左
衛門、松岡盤吉
・その他:渋沢誠一郎、佐藤雄之助、仙石円次郎
・辰口牢獄:現在の丸の内・和田倉門の外濠に面した所にあった。
(1)牢名主・榎本の生活:
・各旧幹部は別々の部屋に入れられた。ただし、一般犯罪者と一緒であった。
入牢した時、旧牢名主から「しゃばでは、どんな悪事を働いたか?」と問われ、
「箱館戦争の榎本じゃ」と応えた。一同驚き、その晩から榎本の肩や腰をもむ
やら、食事の世話をするやらで「獄中楽をした」と彼は家族に語っていた。
・彼は同時に彼等の面倒をみて、常にいたわってやっていた。例えば、彼等幹
部同士英語や漢詩を使って連絡を取り合い、同じ牢内罪人が事情により気の毒
な場合、救済に動いた。
・獄中家族にこまめに手紙を送った。表現も当時の武家社会の人としては考え
られないほど率直で暖かくこまやかであった。かれの人間性を彷彿とさせる。
・ただし、家族は国賊の家族として決して楽ではなかったが、彼は書物と半紙
を差し入れてもらうよう頼んでいた。
・彼はやがて、自分が死罪に処せられるとわかっていても、自分の得た知識を
書き物にしてそれを家族に送り、家族の生計や、日本の将来の産業に役立てよ
うとしていた。
・彼の獄中での起業の提案:
1) 大規模な鶏卵、鴨卵の人工孵化器製法
2) ガルファニー鍍金、鍍銀の方法
3) 藍の取り方、新式の養蚕法
4) ガラス鏡の製法
5) 硫酸の製法
6) ブランディの製法
7) その他
さらに、以上の製造方法などを紙で模型を作っていた。
しかし、これら手紙が世間に発表されるに及び問題となり、周旋した役人らが免
職になるなど、牢内でも厳しく取り締まりとなった。
1. 助命運動
(1) 福沢諭吉と榎本の関係:
この2人の関係は榎本と黒田ほどの密接な関係ではなかった。ただし、下記の
つながりで福沢は助命運動に助力してくれた。
1)榎本の母系と福沢の妻との実家は遠縁であった。しかし、榎本と福沢とは直
に交際はなかった。
2)福沢は榎本の赦免に関して、かなり重要な働きをするようになった。このい
きさつは以下のようである。
・榎本の妹婿に江連加賀守尭則がいた。かれは旧幕府時代、外国奉行を務めてい
た。 一方で、福沢は外国方の翻訳をしていた関係で江連と親しい間柄であっ
た。
・榎本が箱館戦争を起したため、家族は東京を離れざるを得なくなった。このた
め、家族は東京を引き払い、駿府の江連家に世話になっていた。
・箱館戦争後、榎本が入牢した後、家族が榎本の様子を知りたがったが、東京の
親戚は周囲を気遣い役に立たず、江連が福沢に頼み、様子を聞き、福沢を通じ
て情報を得て、また、差し入れ等を行った。
・これ以降、直接家族が榎本に会ったり、差し入れできるようになった。
・榎本は一時、重病になったことがあり、彼の母の代わりに福沢は面会の嘆願書
を書き、姉に清書をさせて兵部署に提出した。翌日許可がでた。これにより、
母は榎本と面会できた。一年ぶりの面会であった。双方うれしかったであろう。
しかし、当時、榎本は重病であったため、日記には記述がなかった。
・明治4年5月以降:母が病気となり、8月26日に母は死去した。この悲報を受け
取った榎本は悲痛きわまるものがあったと言う。(姉宛の手紙に詳しい)
・これ以降、榎本は獄中から必要な書物を差し入れてもらうよう頼んだ。これを
受けて福沢に頼み、彼が手配して入手し、差し入れた。ただし、化学の本は福
沢は詳しくないため、内容が乏しく、榎本は不満であった。
・母亡き後も、福沢は助命運動を続けた。
(2) 榎本助命運動
榎本の判決決定までの経緯は下記のようであった。
1)長州人(木戸、大村等)は強硬論者で「壮年の榎本をこのまま飼い殺しにす
るのは厄介だから斬首せよ!」との意見であった。ただし、木戸は必ずしも強
硬ではなかったが、長州人として柔軟な意見を言えなかった。そこで、木戸 は
廟堂では大勢を薩摩人が占めるので意識的にこの意見を言わせ、薩人から反対
論が出ることを期待した。この議論は明治4年岩倉一行の遣米使節まで続いた。
その出発前に、米国で榎本の処分について質問が出て、「榎本斬首の刑に処し
たら、日本の恥である」と言う議論が出て、結論が出せなかった。
2)一方、福沢は黒田と相談して、釈放運動を行った。そして、米国の南北戦争
の例を引き、「南軍の巨魁を国事犯なるが故に殺さなかった。」これは文明国
の美風であるとした。
3)また、黒田は福沢に「海律全書」を翻訳依頼し、福沢は4,5ページ訳して、
「これ以降は実際に学んだ榎本に依頼すべき」とした。黒田は益々、榎本の助
命に動く動機ともなった。
4)さらに黒田は「彼が蝦夷に行ったのは御国のために尽くそうとしたからで、
減刑すべき。」と結論した。そして、「彼を斬るのであれば、自分の首をはね
てから斬れ」と言って詰め寄った。この時、黒田はこの意思を示すため、頭を
丸坊主となった。
5)一方、木戸は「榎本の如き人間を赦すことは、虎を野に放す如きであるから、
断じて赦せない」と主張した。(先刻の記述と矛盾するが・・・。)
6)結果、最後に西郷に裁断を乞うことになった。西郷は「榎本を斬首するのは
もっての他である。彼が北海道に行ったのは徳川武士を率いて(即ち、陛下の
赤子を)救い、それによって大御心を安んじるためである。彼こそ、憂国の士
である。」とした。そして、1日も早く優遇して、新政府に重用すれば、必ず、
御国のために人物となる故、釈放せよ」と主張した。これにより、榎本の赦免
が決定した。
(3)榎本等の釈放
榎本は自分の命は捨てていたので、後に何か家族や日本の産業育成のために役
立つよう、一心に牢屋で働いていた。
1)1873年(明治5年)1月2日:妻・たつ、姉宛の手紙に仲間が一緒に広間に暮
らすことになること。正月にビールと新聞が送られた」ことを伝えた。
2)同年正月6日:榎本、松平太郎、荒井郁之助、永井玄蕃、大鳥圭介、沢太郎
左衛門が赦免された。
当方のコメント:
(1)榎本他5名の首謀者達は「死罪は免れない」と心していたので、入牢後は、
心の整理ができ、至って心穏やかであったようである。榎本の場合、余生を(死
罪となるまで)家族の後の生活のため、また、日本の産業育成の一助となればと
入手しにくい紙や筆を家族に入れさせ書いている。また、福沢に依頼して、化
学や鉱物等の外国図書を入手してもらい参考としていた。化学については榎本
の方が知識があり、(当時日本では彼が最高位であったと判断される)差し入れ
られた書物に不満を述べていた位である。紙に書くといっても明かりのない所
で苦労したことと推察される。
(2)内容は今日では大したものとは思えないが家内工業向きの起業の情報が中
心であった。模型を作ったりしたとの事で、彼は大変な努力である。囚人とは
とても思えない入牢生活であった。精神的には楽しかったに違いない。
(3)一方、薩長側の裁判の判決(当時は裁判制度がなかったので、廟堂と称す
る薩長トップの合議制)は長州側は理論派が多く、死罪と決めていたが、薩摩
側は黒田の運動もあって、解放論が多かった。最後はやはり西郷の一言で決ま
ったようだ。
本格的裁判制度であれば、逆に、有罪となり、反逆罪として終身刑は免れなか
ったと思われるが、逆に裁判制度がなかったが故に彼等を生かすことが出来た
と言える。
(4)また西郷の一言が最後に有効に働いたことは重要である。箱館戦争を起し
てなお、榎本が嘆願書を送っていたことが漸く理解されたこととなる。嘆願書
がその時受け入れられていれば戦争にならなかったと思われる。無駄に多くの
命が奪われたことは残念である。多分、榎本と西郷が面会する場面が(例えば、
西郷と勝との面談の時でも)あれば西郷の意見で希望は叶えられたと思われる。

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