さすがに、軍艦を失くした榎本軍は最後まで政府軍に抵抗するも、圧倒的数に押
され、残るは3拠点のみとなった。
1. 最後の決戦まで:
(1)榎本軍と政府軍とのやり取り:
・5月12日:この日夕刻、黒田は箱館病院に使者を送り、榎本等の降伏につい相
談した。病院長・高松凌雲と病院係・小野がその仲介役を果すこととなった。
・5月13日:黒田からの降伏勧告書「天朝の思召は寛大である故、無益な抵抗を
止める」との趣旨の勧降書を五稜郭の榎本と松平に送り、また、弁天砲台へも
田島を使者として永井玄蕃等に同様の趣旨の降伏を勧めた。田島はまた、直に
榎本にも会った。
・5月14日:榎本はその厚意に謝したが、降伏には応じなかった。この時、面接
した田島は「榎本の人となりを壮」とし、涙を流し「惜しむべし、かくの如き
士を瓦と共に砕かれんことを」と述べて別れを惜しんだ。
一方、榎本は「明日また軍門にてお出会いすべし」と言って去った。永井も弁
天砲台へ帰った。榎本は黒田に対して下記の趣旨の返書を送った。
返書の内容:
・たとえ、天朝が寛大であっても、今更降伏できないのは武士として当然であり、
当初の願いが聞き入れらたなら、自分はどのような厳罰を受けても良い覚悟で
ある。
・榎本がオランダ留学中、苦心した「海律全書」を日本の海軍の将来のために役
立てたいのでこれを寄贈する。」と申し出た。
(2)榎本軍側内部の動き:
この後、榎本は「海律全書」を無事、黒田へ渡したことで榎本は「全てが終わっ
た。」とし、「今や華々しく最後の一戦を試み、潔く散るのみ」と考えた。そし
て次の動きに出た。
・5月13日田島との会見後、五稜郭に戻った榎本は政府軍の許可を得て、部下の
内、傷病兵250名に金子を与え、湯川村に退かせ、そこで温泉治療を受けさせ
た。また、年少者に向かっては前途ある身であるので、帰順し、皇国のために
尽くすよう勧めた。
この時、15才の田村銀介が立って反論したので、彼を許し決戦することを決意
した。
・一方には、その夜、勝見込みがないと恐怖した兵士は密かに筏を作り、五稜郭
の濠を渡り、降伏するものがあった。この後、榎本は最後の決戦に腹を決めた
者のみで決戦することとして、脱走者のために門を開けて逃げさせた。
(1) 最後の決戦の状況
5月15日:政府軍は海陸合わせて弁天砲台、千代が嶽および五稜郭を総攻撃した。
・弁天砲台:永井以下の将兵は数日来の戦闘のため、食糧が尽き、兵卒が疲労し
たので、衆議の結果、降伏を申し出た。ただし、五稜郭には連絡できず、知ら
されなかった。
・千代が嶽:政府軍の砲火に屈せず、老将・中島三郎助は2人の息子と共に敵陣
に討ち入り、戦死した。そして、翌朝千代が嶽は陥落した。残兵は五稜郭に逃
げた。
・残る五稜郭:決戦体勢でいたところ、黒田は使者を派遣し、何時に戦闘開始す
るか、また、弾薬や兵糧が不足であったら、送っても良いと申し出た。榎本は
感謝しつつも、これを拒否した。
・さらに、黒田は前日、榎本が贈った「海律全書」の返礼として酒5樽に書状を
添えて、榎本に贈り、榎本の好意に報いた。
・榎本は贈られた酒樽を開け、将兵の労をねぎらい、また決別の杯を交わした。
この時、榎本は討ち死にを覚悟であったが、将兵は疲れ果て、気力のないの
を見た時、榎本は彼等を率いて決戦することの無益を悟った。
2. 降伏
(1) 榎本軍の動き:上記の考えの結果、かれは使者を使って密かに降伏の書
を伝えた。
・同時に、彼は自ら一室に退き、小姓・大塚に介錯を命じ、切腹をするため、腹
に刃を当てたが、大塚の必死の押さえと騒ぎに駆けつけた者たちに阻まれ自刃
を果たすことができなかった。この時、止めた大塚は白刃を素手で握り締めた。
榎本はこれを引き抜き続行しようとしたため、大塚の手から血しぶきが飛んだ
と言う。本気で死ぬ気であったことを物語る。
・この騒ぎの後、松平、大鳥、荒井の三将を集め、今の場合「降伏が大義に通ず
る」理由を話し合った。結果「幕末に意義有らしめるため、我々が武士の面目
に固執するならば、は八百の壮者は喜んで全滅してくれる。・・・。しかし、
この戦意を失い、疲れ果てた限りある兵の命を顧みることなく六十余州の大敵
に当たるは誠の武士が取るべき道でない。・・・・。すべからく我等が面目を
犠牲にしてわれ等の外は全て無罪解放の条件をもって官軍に降り、われ等は謹
んで重き天裁を仰ぐのが至当である。」として了解がついた。
・その後、将兵一同にこの旨を告げ、彼等を諭した。彼等は騒然となって、直ぐ
には彼等は応じなかったが、幹部の誠意ある説得に最終的には悟り、一同号泣
してその意に従った。
・榎本は早速使者を黒田の元に送り「明朝6時までに攻撃を中止。」を乞うた。
・翌日その時刻に榎本他幹部4名が出頭して降伏を申し出た。
・午後2時には政府軍への武器引渡しを終え、彼らは五稜郭を出発し、網かごに
乗せられ、箱館に連行された。この間武士の扱いとして帯刀を許され箱館の政
府軍本陣に着いて刀を手渡した。
当方のコメント:
この項の最初に述べた通り、武士道に則り、双方戦い、ついに敗れた榎本軍は、
初めて武士としての扱いを黒田から受けた。色々戦闘場面で武士たる者として印
象強い場面はあるが、やはり最後の降伏の榎本と黒田のやり取りは美談であり、
お互いに友情を感じて終生忘れることはできないであろう。これが後に、黒田の
働きで、榎本が生きながらえることとなる。
このことは、お互い日本人であるからできたことであると思う。将棋の駒にたと
えると捕獲した駒を生かして使う文化だからできたことと思う。
またこれは薩摩の黒田だからできたことと言える。(この影には西郷があった。
)人情に厚く、人間の心理を読める黒田だからできたことともいえる。そして結
果数名の命が救われ、後の新政府(北が苦手な薩・長)にとって、北海道開拓等
に向けて、かけがいのない人材を得たこととなる。

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