2010/09/10

15.4 薩長政権下での活動

明治維新となって、新内閣制度ができる1885年までの間、榎本は新政府(薩長
政府)の下で、政治基盤を整える役職に任ぜられ、以下のような基盤作りを担う
こととなった。
1874年:海軍中将となる
1879年:地学会設立、副会長となる。
1880年:海軍卿となる
1882年:皇居造営事務副総裁
同年:駐清特命全権公使となる。

大きな役割は別項として述べる。

1.海軍卿となり、日本海令の草案作成
1880年:明治初年以降、海令の他も同じく、法律が整っていなかった。
特に海運は非常に幼稚で、無きに等しかった。このため、榎本が海軍卿時代、榎
本の知識を必要とされ、日本海令の草案を上呈した。
ただし、当時、かれの持つ海軍中将の肩書きはロシア全権公使として必要な肩書
きであり、彼は日本海軍の建設には極力避け、1年2ヶ月で辞した。

2. 皇居造営事務副総裁
1883年:近代的皇居の造営が計画の議題となり、その計画に当たり、ロシアの宮
殿を良く知っている榎本が皇居造営御用掛・副総裁に選ばれた。ただし、当時薩
長政府下では例え、有能な人物であっても、最高の地位に就くことは出来なかっ
た。即ち、政府は最も必要とする場合のみ最高の責任ある地位に就かせ、その後、
解任することを常とした。(常にピンチヒッターの役割)
榎本は自ら藩閥政治の中に入ってまでそれをしようとはしなかった。即ち自分の
経歴を意識していた。ただし、黒田の後ろ盾で各種重要ポストに就くこととなっ
た。
1883年9月:皇居造営事務副総裁を免じられた。清国駐在・特命全権公使として
家族を連れ中国に駐在となった。

3.気象学会と気象台設立
1878年代:内務省地理局の下、荒井郁介等を中心に日本人学者や技術者の手によ
り、気象観測事業を開始する。
1879年:地学協会設立、榎本は副会長に任ぜられる。
1883年:東京気象学会が成立す。荒井が主に動き、会誌「気象集誌」が発刊され
た。
1888年:中央気象台が開始された。
1889年:大日本気象学会として新発足する。
 会長:山田(元政府軍陸海軍参謀、箱館戦争で榎本と戦った。)
1893年:山田死去し、榎本が会長を引き継ぐ。
1896年:気象台は文部省に移管された。荒井が中央気象台、初代台長となる。


15.5 外務省(外務大臣補佐)と在シナ時代

1.外務大臣補佐として
1880年:寺嶋外務卿の下で、不平等条約改正に事業に当たる。
1882年:榎本駐清特命全権公使に任ぜられる。
   皇居造営事務副総裁にも任ぜられる。
1884年:朝鮮半島情勢:甲申事変
  朝鮮は当時、独立党(日本が支援する)と事大党(閔氏の一派で、中国が
 支援する)とが争い、次第に激しさを増していった。
12月:独立党の一派がクーデターを起し、王宮を占拠した。閔氏はこれを逃れ、
袁世凱(中国)に頼った。
日本人40名虐殺され、閔氏一族の政権を樹立する。(甲申事変と言う)
日本政府・外務卿・井上を特派全権大使として軍隊と伴に京城に派遣した。
清国も同時に、呉を隊長に陸海兵を付けて京城に送った。
1885年1月:井上と呉が談判し、清国は日本へ弔慰金と公使館修繕代を支払うこ
とで合意し、調印した。
1)天津条約締結
  中国は北洋大臣・李鴻章、日本代表は伊藤博文であった。榎本は裏方として
李鴻章と打ち合わせし、解決を助けた。
  初めは双方共、強気で妥協せず、伊藤は条件に合わなければ引き上げ、戦争
も辞さない覚悟であった。榎本はこれを相手にも伝え、説得を重ねた。
   最終的に下記3条件の決着をみた。この影には榎本と李鴻章との信頼関係
が働いてのことであった。影の立役者と言える。また、榎本は伊藤の交渉力をた
いしたことはないと判断していた。当時、伊藤に限らず、相手が弱いとみると、
高飛車に出るのが役人の常であった。一方、榎本はこの様な態度は取らず、語学
が出来たこともあるが、話し合いで、信頼関係を築き(無論駆け引きもあるが)交
渉を進める態度であった。Win-Winの関係を築いた。

1885年4月:中国と日本とで下記内容の条約を締結した。
・朝鮮から日本軍及び中国軍を撤退させることとする。
・両軍は朝鮮に軍事教官を派遣しないこととする。
・出兵の必要があれば、事前に交渉し、事変後撤退する。
 
これ以降の彼の外務大臣としての役割は下記に続くが、活躍内容を15.7章「
条約改正」に記す。
1891年:松方内閣で、外務大臣に就任。松方内閣が総辞職し、外務大臣を辞任。
1892年:条約改正調査委員会委員長に就任。

著者コメント:
榎本は薩長の明治政府に要請されて次々に外務大臣をはじめ役職に就任し、自ら
持てる経験と知識を新政府やシステム作りに邁進した。当時、役人とりわけ大臣
は名誉職とされ、何もせず(できずと言った方がよいが・・・。)えばっている
のが常であったが、榎本は率先して事に当たった。中国との交渉も伊藤が表向き
の代表となっているが実質は李鴻章と友情を勝ち得、取りまとめた。かれのコミ
ュニケーション能力(中国語も話せた)が発揮されたわけである。かれの日記で
「伊藤は大したことはない」と言い切っている。「長州人何するものぞ!(こい
つらに負けたけれど!・・・。)」と思ったことであろう。両者の教育程度を比
較すれば差は歴然であり、榎本が伊藤をあまり評価しなかったのも当然であろう。
また、榎本は薩摩人を好んだが、長州人は好きでなかったようだ。特に山県とは
合わなかった。

2010/08/26

15.4 薩長政権下での活動

明治維新となって、新内閣制度ができる1885年までの間、榎本は新政府(薩長
政府)の下で、政治基盤を整える役職に任ぜられ、以下のような基盤作りを担う
こととなった。
1874年:海軍中将となる
1879年:地学会設立、副会長となる。
1880年:海軍卿となる
1882年:皇居造営事務副総裁
同年:駐清特命全権公使となる。

大きな役割は別項として述べる。

1.海軍卿となり、日本海令の草案作成
1880年:明治初年以降、海令の他も同じく、法律が整っていなかった。
特に海運は非常に幼稚で、無きに等しかった。このため、榎本が海軍卿時代、榎
本の知識を必要とされ、日本海令の草案を上呈した。
ただし、当時、かれの持つ海軍中将の肩書きはロシア全権公使として必要な肩書
きであり、彼は日本海軍の建設には極力避け、1年2ヶ月で辞した。

2. 皇居造営事務副総裁
1883年:近代的皇居の造営が計画の議題となり、その計画に当たり、ロシアの宮
殿を良く知っている榎本が皇居造営御用掛・副総裁に選ばれた。ただし、当時薩
長政府下では例え、有能な人物であっても、最高の地位に就くことは出来なかっ
た。即ち、政府は最も必要とする場合のみ最高の責任ある地位に就かせ、その後、
解任することを常とした。(常にピンチヒッターの役割)
榎本は自ら藩閥政治の中に入ってまでそれをしようとはしなかった。即ち自分の
経歴を意識していた。ただし、黒田の後ろ盾で各種重要ポストに就くこととなっ
た。
1883年9月:皇居造営事務副総裁を免じられた。清国駐在・特命全権公使として
家族を連れ中国に駐在となった。

3.気象学会と気象台設立
1878年代:内務省地理局の下、荒井郁介等を中心に日本人学者や技術者の手によ
り、気象観測事業を開始する。
1879年:地学協会設立、榎本は副会長に任ぜられる。
1883年:東京気象学会が成立す。荒井が主に動き、会誌「気象集誌」が発刊され
た。
1888年:中央気象台が開始された。
1889年:大日本気象学会として新発足する。
 会長:山田(元政府軍陸海軍参謀、箱館戦争で榎本と戦った。)
1893年:山田死去し、榎本が会長を引き継ぐ。
1896年:気象台は文部省に移管された。荒井が中央気象台、初代台長となる。


15.5 外務省(外務大臣補佐)と在シナ時代

1.外務大臣補佐として
1880年:寺嶋外務卿の下で、不平等条約改正に事業に当たる。
1882年:榎本駐清特命全権公使に任ぜられる。
   皇居造営事務副総裁にも任ぜられる。
1884年:朝鮮半島情勢:甲申事変
  朝鮮は当時、独立党(日本が支援する)と事大党(閔氏の一派で、中国が
 支援する)とが争い、次第に激しさを増していった。
12月:独立党の一派がクーデターを起し、王宮を占拠した。閔氏はこれを逃れ、
袁世凱(中国)に頼った。
日本人40名虐殺され、閔氏一族の政権を樹立する。(甲申事変と言う)
日本政府・外務卿・井上を特派全権大使として軍隊と伴に京城に派遣した。
清国も同時に、呉を隊長に陸海兵を付けて京城に送った。
1885年1月:井上と呉が談判し、清国は日本へ弔慰金と公使館修繕代を支払うこ
とで合意し、調印した。
1)天津条約締結
  中国は北洋大臣・李鴻章、日本代表は伊藤博文であった。榎本は裏方として
李鴻章と打ち合わせし、解決を助けた。
  初めは双方共、強気で妥協せず、伊藤は条件に合わなければ引き上げ、戦争
も辞さない覚悟であった。榎本はこれを相手にも伝え、説得を重ねた。
   最終的に下記3条件の決着をみた。この影には榎本と李鴻章との信頼関係
が働いてのことであった。影の立役者と言える。また、榎本は伊藤の交渉力をた
いしたことはないと判断していた。当時、伊藤に限らず、相手が弱いとみると、
高飛車に出るのが役人の常であった。一方、榎本はこの様な態度は取らず、語学
が出来たこともあるが、話し合いで、信頼関係を築き(無論駆け引きもあるが)交
渉を進める態度であった。Win-Winの関係を築いた。

1885年4月:中国と日本とで下記内容の条約を締結した。
・朝鮮から日本軍及び中国軍を撤退させることとする。
・両軍は朝鮮に軍事教官を派遣しないこととする。
・出兵の必要があれば、事前に交渉し、事変後撤退する。
 
これ以降の彼の外務大臣としての役割は下記に続くが、活躍内容を15.7章「
条約改正」に記す。
1891年:松方内閣で、外務大臣に就任。松方内閣が総辞職し、外務大臣を辞任。
1892年:条約改正調査委員会委員長に就任。

著者コメント:
榎本は薩長の明治政府に要請されて次々に外務大臣をはじめ役職に就任し、自ら
持てる経験と知識を新政府やシステム作りに邁進した。当時、役人とりわけ大臣
は名誉職とされ、何もせず(できずと言った方がよいが・・・。)えばっている
のが常であったが、榎本は率先して事に当たった。中国との交渉も伊藤が表向き
の代表となっているが実質は李鴻章と友情を勝ち得、取りまとめた。かれのコミ
ュニケーション能力(中国語も話せた)が発揮されたわけである。かれの日記で
「伊藤は大したことはない」と言い切っている。「長州人何するものぞ!(こい
つらに負けたけれど!・・・。)」と思ったことであろう。両者の教育程度を比
較すれば差は歴然であり、榎本が伊藤をあまり評価しなかったのも当然であろう。
また、榎本は薩摩人を好んだが、長州人は好きでなかったようだ。特に山県とは
合わなかった。

2010/08/06

ヨーロッパ情勢とロシア・シベリアの調査旅行

榎本は「千島・樺太交換条約締結」のため、全権大使としてロシア滞在中、合間
を利用して精力的にヨーロッパ各地を視察して回った。究極は、ロシアからの帰
国をシベリア経由馬車で行ったことである。これもあまり知られていない事実で
あるが、彼の個人的日記として書かれたもので、外に出さなかったためである。
この言わばかれの探検を日記からダイジェストしてお伝えする。

今回の内容は先ず、ヨーロッパ各地の視察とロシアからのシベリア経由の帰国(
と言うより、ロシア視察旅行と言うべき)旅行の前半部をお伝えします。

4.西ヨーロッパ視察(1875年8月26日~1878年:ロ土戦争終結まで)
1875年8月26日:ベルリンに到着し、松本順の息子・松本桂太郎に会う。
8月 日:エッセンに到着し、クルップ製鉄所を訪問する。
    コブレンツに滞在し、クルップの鉱山を見学する。

その後、1878年まで(ロ土戦争が終わるまで)ロシアやヨーロッパに滞在して、
以下のように、ヨ―ロッパ情勢を見聞し、分析を行っていた。
(1)トルコ情勢:ロ土戦争を見聞し、分析した。
1876年5月トルコ皇帝・アブドラ・アジスが廃位され、アブドラ・ハシトII世が
即位した。これは無血革命であったが、皇帝は民主政治を行うと言っていたが、
これは見せかけであった。榎本はこれを見抜いていた。(皇帝はハレムで生活し
ており、とても民主政治などできないと見ていた。)
トルコ情勢を見て、彼は「国の基礎は財政的独立を保つことによって初めてでき
る」と確信した。「外国から借款によって国の財政を維持することは外国の植民
地化するものである。」と判断した。
1878年:ロ土間で、サンステファノ条約が成立した。榎本はこれまでをロシアに
滞在して、ウォッチしていた。家族にもそれを伝えていた。
(2)イギリスの動静:
 スエズ運河の証券を買い入れた動きを見た。
(3)榎本は英、仏、独、ロの各国新聞を読み、戦争の結果について考察し、ロ
シアの勝利を確信したが、「ロシアの経済情勢は問題あり」としていた。
(4)アメリカ大統領・グラントがキューバを併合した。これは大統領選挙に勝
つことを狙ってのことと分析していた。
(5)ロシア情勢:
ロシア国内で社会主義者の学生運動の発生を批判的に見ていた。榎本は未だ、
専制主義に対する社会主義的批判精神を理解できていなかった。

15.3 シベリア旅行

旅行目的:(彼自身の意図)
1.当時ロシアとは樺太問題でようやく解決したが、国内ではロシアを恐れる風
潮があり、このロシア恐怖症をほぐすには、シベリアを踏破して、その実情を極
める必要があると判断したこと。
2.また駐露特命全権大使を引き受けた理由もシベリア調査の意図があったため
であった。

1878年7月26日:ペテルスブルグを出発した。彼は「ロシアの実情を調査する目
的でアレキサンダー2世の許しを得てこれを行った。同行者は1名(大岡金太郎)
期間は約2ヶ月に及んだ。
榎本はこのシベリア旅行を単なる観察に止めなかった。旅先で見るべき場所はほ
とんど立ち寄って観察し、見物し、要路の人々とも全て接した。このため多忙な
毎日を過ごした。
また、毎日、日記を書いた。
旅行は全権公使と言う肩書きで旅行し、ロシア政府から先々の長官や司令官に鄭
重に扱うよう指示が出され、各地で歓待を受けた。
当時のロシアおよびシベリアは下記の状況であった
・シベリアには鉄道は敷設されていない。
・シベリアの大部分は荒地で主に政治犯などの流刑地であった。
・道路はあったが、未だ整備されず、凸凹が激しかった。
・ロシア特有の半有蓋馬車・タランタスを用い、ロシア政府の厚意でシベリア各
 県令を通過の折りには「鄭重に扱うよう」との電信を打ってもらっていた。
・実情調査は政治、経済、軍事に及び、下記項を調査した。調査は科学的で、専
 門的であり、気温は毎日3回測定していた。
1) シベリアの地質、地理、気象、植物、鉱物
2) 土地の人情、風俗、人種、言語、宗教、
3) 地勢、地質、地味 特に鉱業、砂金の採取
4) 産業一般、交易、政治、軍隊
筆者コメント:
1.ヨーロッパ視察について
(1)前記の通り、榎本は時間を作って精力的にヨーロッパ各地を視察した。同
  時に4ヶ国語の新聞を読み、自分なりに政治情勢など分析していた。本来、
 外務省が組織立って行うべきことであるが、当時の外務省は未だ実質的に存在
 していないため、かれがその全てを行っていたと言える。結果論として、彼の
 分析は正しいと言えるが、ただし、ロシアの社会主義運動についてはかれは理
 解できなかった。これは明治となった時代でもかれの歴史観はあまり変わって
 いないことを示している。当時の天皇制の日本の下では理解できないのは無理
 もないと言える。
(2)経済および産業視察でも、4日間かけてドイツのクルップ社を見学してい
 る。先ず、クルップの別荘に3日滞在し、製鋼所で大砲の製造を見学し、その
 後、クルップの鉱山まで見ている。彼は後に、(1896年・明治29年)浦賀船梁
 株式会社(後に、浦賀ドック、または浦賀造船所となる)を興すが、この視察
 が頭に描かれていたに違いない。ただし、これもこの時彼は農商務大臣であっ
 たため前面に出ず、荒井郁之助を立てて、日清戦争の後、日本の防衛力強化の
 必要性を考え起こしたものである。
(3)当時、外務省の役人は鹿鳴館のイメージ通り、華やかな舞台として外交面
 で働くイメージであったが、榎本は地味な裏方もやっていたことでもある。

2.ロシアからの帰国旅行について
(1)ロシア・シベリアの情報は当時、日本はおろかヨーロッパ、ロシア人でも
 知られていない地であり、情報もなかったに違いない。だからこそ、彼は行か
 なければと言う、使命感を抱いていたに違いない。内容も政治、産業、軍事お
 よび住民等、多岐にわたり、これを成し遂げた彼の精神的、肉体的タフさに驚
 く。
 残念なことは、この旅行について全くと言っていいほど日本では知られていな
 い。
 これの個人的日記や家族への手紙という形を立ったためであり、彼自身があま
 り、積極的に外に発表しなかったためである。自慢したくないと言った性格や
 立場から来ることもあろう。もっと、評価されてしかるべきである。

2010/07/16

15.2 ロシア滞在時代

前々回:黒田や福沢の尽力で死罪を免れ、出獄することができました。
前回は:出獄後、暫くして、当時北海道開拓使長官であった黒田から、強い希
望で彼の下の開拓使を命ぜられました。初めは辞退していましたが、最終的に
は承諾し、明治新政府役人として第一歩を踏み出すこととなりました。
今回はこの後、新政府からの要請で外務組織を作り、外国との通商条約を締結
したり、不平等条約を改正するため、彼が抜擢されます。

15.2 ロシア滞在時代

1.新政府、外交組織を新設する。
 1870年(明治3年):新政府は独立国として外国との関係を如何に築くかが問
われるため、下記のように外交組織を作った。
・外務省に大弁務使(特別全権公使)、
・中弁務使(弁理公使)、
・少弁務使(代理公使)
しかし、組織は作ったが、その職に当たる専門外交官がいなかった。当時、新
政府の役人は、維新成立に寄与した人材が選ばれており、多くは軍事的指揮や、
天下国家を論じる国士であった。このため外国との政治的折衝を重ね相手を納
得させる様な人物(政治家)に欠けていた。また当時、外国使節は日本の立場
や事情を考慮せずに傲慢に出るケースが多く、役人にとって、この様な外国使
節を相手にすることは、日本の役人が最も苦手とするところであった。

2. 新政府の外務省の職務
 新政府は下記の諸問題を取合えず、課題として取り組む必要があった。
(1)和親条約の改正の必要性
 国内的問題として、江戸時代末期に結ばれた不平等条約・和親条約を対等な
 条約として改正することが大きな課題であった。
(2)ロシアに対する脅威感
 サハリンでのロシア人の南下や暴力等、黒田が視察して、あと3年しか保てな
 いと判断した位、脅威を抱いていた。
(3)中国に対する脅威感
 その前に、中国や朝鮮との通商条約に基づく修交関係がなかった。無論、無
 条約のままで済まされないので、国際法上、対等な関係(独立国としての)
 を結ぶ必要があった。
 また、国内では征韓論など朝鮮に対しては威圧的態度であったが、朝鮮の背
 後に中国が存在するとする恐怖感があった。また、中国は「眠れる獅子」と
 しての恐怖感も存在していた。

3.カラフト問題の解決
 1869年:日本人は樺太・南部に、ロシアは樺太・北部に住んでいたが、ロシ
ア人は時折、南下し、占拠していた。日本はこれに対し、北緯50度以南の領有
を主張続けた。
日本政府としての対ロシア対応:
ロシア人の樺太における 日本人への態度は益々悪化した。例えば、カラフト
・函泊の日本人所有倉庫を放火し、暴行を働いた。
 この様な状況の樺太問題で政府は対応を急ぐ必要があると判断した。
 また、当時、黒田は北海道開拓がロシアの侵入の防波堤になるべきと意識し
 ていた。
新政府は以下のように対応することとした。
1)1869年:蝦夷地開拓の詔勅が出される。
 これはロシアの侵入に対する対策とするものであった。
2)新政府は「榎本の反乱軍がロシアと組むと大変なことになる」と心配した。
 このため、政府はロシアとは衝突を避ける態度をとった。
3)1870年:新政府は樺太開拓使を置いた。黒田を開拓使次官として調査を行
 わせた。 黒田は8月にカラフトに赴任し、調査を開始した。
4)黒田の調査結果:
・このままでは今後3年しかもたない。
・むしろ、北海道開拓に重点を置くべきとした。
・樺太開拓使を廃止し、北海道開拓と同じ行政管内で行わせることとした。

(1) 榎本のロシア駐在、ロシア特命全権大使就任
 箱館戦争終了後、新政府は先ずカラフト問題を解決すべく、下記の目的で榎
 本を起用することとした。
・カラフトでの雑居の状況でのトラブルを解決し、カラフトの帰属を決定する。
・その上で、カラフト移民500数十人を北海道に移転させる。
・カラフトを千島列島と交換することを腹案とした。
1874年:前記カラフト問題解決のため、黒田の強力な推薦により、ロシア交渉
に向けて、榎本がロシア特命大使に選ばれ、かつ対外的"箔"を付けるため彼は
海軍中将に任ぜられた。これは、当時ヨーロッパでは外交官の社交界では将官
の位が重視されたためである。
一方、かれは二度と海軍に入らないと考えていた彼にとっては皮肉である。ま
た、派遣される榎本の意図は「先ず、ロシアに対する日本人の恐怖心をほぐす
には、シベリアを踏破して、その実情を究めることが必要」と考えた。駐露特
命全権大使を引き受けた理由もシベリア調査の意図があったからである。
大使就任後直ちにロシアに向かう。全権一行、インド洋経由、スエズ運河を経
由しベニスから汽車でパリ、オランダ経由してロシアに入った。
1874年5月28日:榎本はベルリンへ入った。その後、ロシア入りした。
同年7月18日:ロシア・アレキサンダー2世に謁見する。

―以降5年間、1882年まで、ロシアに滞在し、ロシア国内の実情を目撃した。―

1874年6月22日:第一回会談:ロシア側:スツレモーレフ(外務省アジア局長)
との顔合わせ。
8月第2回交渉:本格的交渉を行う。
11月:両国の意見が明示された。
その後、数か月間、数回交渉を行い、榎本は政府訓令の基に千島列島との交換
を承諾し、条約締結に漕ぎ着けた。
1875年5月:セント・ぺテルスブルグで樺太・千島交換条約に調印した。
1875年8月22日:日本政府、東京で樺太・千島交換条約を批准した。
ただし、国内では榎本の弱腰外交として非難された。
ロシアでは榎本はアレキサンダー2世に厚遇された。また勲章を授与された。
1875年11月3日:ロシアで日本公使館完成時、ロシアの諸大臣を招いて祝宴を開
いた。

参考:アレキサンダー2世・治世下でのロシアの出来事:
・1855年ツアーに即位、クリミア戦争で敗北し、屈辱的講和をむすぶこととな
 った。しかし、その後、在位27年に及ぶ。ロマノフ王朝の近代的名君として
 評価されている。
・1861年:農奴解放を行った。(ロシア農業の近代化の第1歩)
・刑事犯と民事犯を行政から分離し司法(裁判所)に移して明朗化を計った。
・教育を盛んにし、鉄道を敷設し、鉱山開発を行う等産業の近代化を進めた。
・1873年:ドイツ、オーストリアの皇帝と三帝同盟を締結し、イギリスの大陸
 への影響を阻止した。
・1877年トルコと戦争し、勝利した。サンステファの条約締結(この時期、こ
 れらを榎本は目撃している)

著者コメント:
先ず、榎本が何故、帰国するに当たり、馬車でシベリア横断することを思い付
き、皇帝に願い出て、交渉し、許可をもらい、実行に移す。この発想、交渉力
と行動力に驚嘆する。

現在、外交官にこれをやれと言ったらできるだろうか?できない理由を探し、
交渉したが、拒否されたと言ってやらないであろう。

下記2点を考える。
1.なぜ、榎本はシベリア経由の帰国を考え、実行したのか?
2.榎本が何故アレキサンダー2世から好まれ、厚遇を受け、さらにシベリア経
 由帰国を許したのか?

・1項に対する意見(考え):
 かれはロシアとの交渉に当たり、日本国内にロシア恐怖症があることを懸念
していた。これを払拭したいと考えて、実情を調査すべきと判断した。旅行中、
皇帝の許可証が各種調査に役立ったことは言うまでもない。
・2項に対する意見(考え):
 皇帝から榎本は交渉を通じて信頼され、最後には勲章まで授与された。
この信頼関係が交渉の上でも、また、旅行の許可を得る上でも決定的となっと
考える。
さらに細かく見ると下記が挙げられる。
1)榎本の語学力(ロシア語をも話せた)で率直に意見を言えた。
2)榎本の人柄(日本人にしては、背が高く、威厳があった。しかし愛想よく
 誰にでも好かれた。)
3)オランダ留学の経験から、外国人との接触に慣れしていた。相手への配慮
 や、考え方を理解していた。
4)決してロシア人を恐れず、対等にふるまった。これができた人であった。

2010/06/16

その15  明治新政府の下での活動

前回、黒田や福沢の尽力で死罪を免れ、出獄することができた。出獄後、暫く
して、当時北海道開拓使長官であった黒田から、強い希望で彼の下で開拓使を
命ぜられた。初めは辞退してい
たが、最終的には承諾し、明治新政府役人として第一歩を踏み出すこととなる。

その15  明治新政府の下での活動

15.1 北海道開拓使時代

1. 北海道開拓の経緯
・1869年2月(箱館戦争前):岩倉具視は朝議で、ロシアに対する国防上の見地
から北海道開拓を急務として朝議する様建議された。
・1869年6月:ロシアが樺太南部・函泊を占拠した。ロシアは翌年さらに兵員を
増強し、暴挙は益々ひどくなった。
・1870年2月:このため政府は北海道と切り離し、樺太開拓使を置き、初代長官
に黒田を任命した。
・同年8月:黒田は樺太に行き、実情調査を行った。帰途、北海道に寄り、こち
らも実情調査を行った。結果、開拓使施設を設ける等の改革の必要性を痛感
し、帰郷後建議した。彼は「樺太は現状では3年しか保てない」とし、「鉱物、
化学に詳しい者を参加させる必要」を述べた。
・1873年6月4日:箱館戦争終結後、北海道開拓の詔勅が出た。
・7月8日:北海道開拓使が設置され、初代長官には鍋島がなった。この地位は
諸省卿(大臣並)と同じとされていた。ただし、鍋島は当時高齢のため辞退
した。このため、東久世を起用した。また、蝦夷を北海道と改称した。
・新政府は予算がないため、北辺に備える(対ロシア)と北海道開拓には「屯
田兵」制度(開拓民と兵隊を兼ねた制度)を用いることとした。

2. 榎本が釈放されて後、北海道開拓使となるまでの経過
・1873年1月:榎本が黒田と福沢の助命運動の結果、榎本他、5名の仲間が釈放
された。しかし、榎本等は思いがけなく釈放されたが、榎本にはこの後、二
君に仕える気持ちはなかった。ましてや、官途に就いて出世することなど考
えてもしなかった。
・当時、黒田は北海道開拓長官に任ぜられており、技術者としての榎本等を必
要としていた。
・1月12日:松平太郎以下4名が釈放後、黒田は早速、この5名を開拓使出張所に
呼び、開拓使奉仕へ出仕を命じた。同時に、彼等は長年入牢していたので、
「療養のため、当分出勤に及ばず」とした。(黒田の厚意であった)かれらは
喜んでこれを受けた。
・明治4年:黒田は当時、開拓使として北米からケプロンを招き、調査を開始す
るところであった。従って、外国人の外に日本人の技術者(技量と学問的素
養のある人材)を必要としていた。また、薩摩人は北海道には住みづらいた
め人材に事欠いていた。 榎本はこれにぴったりであった。
・そこで、黒田は開拓使として榎本の技量特に化学や鉱物等の知識を必要とし
た。榎本へ開拓使出仕を勧告した。しかし、榎本は、前記のような気持ちで
あったため、直ぐには応じなかった。また、かれにとって、北海道は古戦場
であり、そこへ行くことは憚られた。しかし、他の5名が既に開拓使に任ぜら
れ、北海道に着任していたので、心を引かれる気持ちもあった。(黒田の作
戦がうまかったと言うべき。)

3. 榎本の北海道開拓使としての活動
3.1 榎本と北海道との関係性

(1)彼が幼い頃、父は伊能忠敬に随行し蝦夷地を測量して歩いた。かれはこ
の話を父から聞いていた。
(2)18才の時、奉行堀織部の小姓として箱館に入った。奉行に付いて樺太ま
で探検をお供した。北辺の警備と開拓の重要さを認識していた。
(3)北辺の警備のためにも、海軍力強化の必要性を自覚し、その後、長崎海
軍伝習所へ入り、海軍の技術を身につけることとなった。
(4)オランダ留学し、軍事技術の他日本の産業振興のために必要な科学技術
を身につけた。
(5)前章で述べた通り、戊辰戦争で、主家の没落を目にし、いたたまれず、
主家や家臣を救うため、北海道へ脱出し、国土経営を願い出たが拒否され、
政府を相手に戦争を行い、結果として敗れ、この章に至った。

3.2 榎本の開拓使としての活動
(1)5月27日:横浜港を出発、30日函館港到着。
  直ぐに、石油、石炭を調査を開始する。その他、地質(主に粘土)を調査す
る。また、鉛鉱石等、鉱物資源も精力的に調査開始する。
 ・空知炭田を発見
 ・イク士別石炭を調査し報告書提出。「幌内炭鉱」と呼ぶこととした。
(1) 函館測候所を設置する。
(2) 調査領域を広げ、石狩、日高、十勝、釧路、根室地方の物産および地
質を調査する。
(3) 別に、ケプロンが調査を開始した。黒田の方針で、榎本とは別に行う
こととした。ケプロン、石狩炭田が有望とした。
(5)黒田は技術に詳しい腹心として、榎本を局副総裁とする案を持っていた。

コメント:
(1)榎本他5名の幹部は解放されたことは望外の喜びであったことと思われる。
 5名の幹部は黒田に呼ばれ、すぐに北海道開拓使を命じられ即刻、承諾する。
しばらく静養後、北海道に赴いた。しかし、榎本は直には承諾しなかった。
彼の心情からは当然であろう。このことは黒田は榎本がすぐには応じないこ
 とを理解していたのであろう。従って、他の5名にまず、開拓使を命じ、間を
 置 いて、彼に開拓使へ任命する一方、黒田の下で働くことや仲間がいること
 で、 気持ちが揺らいだ事であろう。
 ただし、時を坂上って、箱館戦争の前に、この役を命じられたら「望むとこ
 ろとして」直ぐに受けたであろう。皮肉である。彼は将にそのように思った
 に違いない。
(2)当時、ロシアは南に港を求め、南下したいとの欲求があり、占拠したり、
 乱暴したり、狼藉を働いていた。黒田はほっと置けないと考えたが、外交交
 渉ができる人物もいなかった。従って、開拓使の他、黒田の頭の中には榎本
 を外交官として使いたいとの思惑もあったに違いない。榎本は後にロシアと
 の外交交渉役として全権大使を任される。まさに彼は黒田の懐刀となる。こ
 の後・終世、榎本との友情と信頼は仕事を通じて確立されていく。また、明
 治政府ないし日本としても、彼以外に人はなく、彼に期待が大きかった。逆
 に、彼が死罪となっていたら、誰がこれらの役を演じられたであろうかと暗
 然たる思いとなる。

2010/05/28

その14:獄中時代

お話は榎本以下幹部5名が牢屋に入れられ、2年間を過ごすことになりました。
箱館戦争の主犯であり通常であれば死刑は免れられない。しかし、敵将である黒
田清隆と福沢諭吉の助命嘆願により、出獄を許された。今回は、この間の経緯を
主に述べることとします。

その14:獄中時代

1.首謀者としての入牢生活:明治2年(解放されるまで、2年半居たこととな
る)箱館戦争の首謀者としてまた、朝敵として重罪犯人として入牢を申し付けら
れたのは下記の10名であった。
・軍首脳:榎本武揚、松平太郎、大鳥圭介、永井玄蕃、荒井郁之助、沢太郎左
衛門、松岡盤吉
・その他:渋沢誠一郎、佐藤雄之助、仙石円次郎
・辰口牢獄:現在の丸の内・和田倉門の外濠に面した所にあった。
(1)牢名主・榎本の生活:
・各旧幹部は別々の部屋に入れられた。ただし、一般犯罪者と一緒であった。
入牢した時、旧牢名主から「しゃばでは、どんな悪事を働いたか?」と問われ、
「箱館戦争の榎本じゃ」と応えた。一同驚き、その晩から榎本の肩や腰をもむ
やら、食事の世話をするやらで「獄中楽をした」と彼は家族に語っていた。
・彼は同時に彼等の面倒をみて、常にいたわってやっていた。例えば、彼等幹
部同士英語や漢詩を使って連絡を取り合い、同じ牢内罪人が事情により気の毒
な場合、救済に動いた。
・獄中家族にこまめに手紙を送った。表現も当時の武家社会の人としては考え
られないほど率直で暖かくこまやかであった。かれの人間性を彷彿とさせる。
・ただし、家族は国賊の家族として決して楽ではなかったが、彼は書物と半紙
を差し入れてもらうよう頼んでいた。
・彼はやがて、自分が死罪に処せられるとわかっていても、自分の得た知識を
書き物にしてそれを家族に送り、家族の生計や、日本の将来の産業に役立てよ
うとしていた。
・彼の獄中での起業の提案:
1) 大規模な鶏卵、鴨卵の人工孵化器製法
2) ガルファニー鍍金、鍍銀の方法
3) 藍の取り方、新式の養蚕法
4) ガラス鏡の製法
5) 硫酸の製法
6) ブランディの製法
7) その他
さらに、以上の製造方法などを紙で模型を作っていた。
しかし、これら手紙が世間に発表されるに及び問題となり、周旋した役人らが免
職になるなど、牢内でも厳しく取り締まりとなった。

1. 助命運動
(1) 福沢諭吉と榎本の関係:
この2人の関係は榎本と黒田ほどの密接な関係ではなかった。ただし、下記の
つながりで福沢は助命運動に助力してくれた。
1)榎本の母系と福沢の妻との実家は遠縁であった。しかし、榎本と福沢とは直
に交際はなかった。
2)福沢は榎本の赦免に関して、かなり重要な働きをするようになった。このい
きさつは以下のようである。
・榎本の妹婿に江連加賀守尭則がいた。かれは旧幕府時代、外国奉行を務めてい
た。 一方で、福沢は外国方の翻訳をしていた関係で江連と親しい間柄であっ
た。
・榎本が箱館戦争を起したため、家族は東京を離れざるを得なくなった。このた
め、家族は東京を引き払い、駿府の江連家に世話になっていた。
・箱館戦争後、榎本が入牢した後、家族が榎本の様子を知りたがったが、東京の
親戚は周囲を気遣い役に立たず、江連が福沢に頼み、様子を聞き、福沢を通じ
て情報を得て、また、差し入れ等を行った。
・これ以降、直接家族が榎本に会ったり、差し入れできるようになった。
・榎本は一時、重病になったことがあり、彼の母の代わりに福沢は面会の嘆願書
を書き、姉に清書をさせて兵部署に提出した。翌日許可がでた。これにより、
母は榎本と面会できた。一年ぶりの面会であった。双方うれしかったであろう。
しかし、当時、榎本は重病であったため、日記には記述がなかった。
・明治4年5月以降:母が病気となり、8月26日に母は死去した。この悲報を受け
取った榎本は悲痛きわまるものがあったと言う。(姉宛の手紙に詳しい)
・これ以降、榎本は獄中から必要な書物を差し入れてもらうよう頼んだ。これを
受けて福沢に頼み、彼が手配して入手し、差し入れた。ただし、化学の本は福
沢は詳しくないため、内容が乏しく、榎本は不満であった。
・母亡き後も、福沢は助命運動を続けた。
(2) 榎本助命運動
榎本の判決決定までの経緯は下記のようであった。
1)長州人(木戸、大村等)は強硬論者で「壮年の榎本をこのまま飼い殺しにす
るのは厄介だから斬首せよ!」との意見であった。ただし、木戸は必ずしも強
硬ではなかったが、長州人として柔軟な意見を言えなかった。そこで、木戸 は
廟堂では大勢を薩摩人が占めるので意識的にこの意見を言わせ、薩人から反対
論が出ることを期待した。この議論は明治4年岩倉一行の遣米使節まで続いた。
その出発前に、米国で榎本の処分について質問が出て、「榎本斬首の刑に処し
たら、日本の恥である」と言う議論が出て、結論が出せなかった。
2)一方、福沢は黒田と相談して、釈放運動を行った。そして、米国の南北戦争
の例を引き、「南軍の巨魁を国事犯なるが故に殺さなかった。」これは文明国
の美風であるとした。
3)また、黒田は福沢に「海律全書」を翻訳依頼し、福沢は4,5ページ訳して、
「これ以降は実際に学んだ榎本に依頼すべき」とした。黒田は益々、榎本の助
命に動く動機ともなった。
4)さらに黒田は「彼が蝦夷に行ったのは御国のために尽くそうとしたからで、
減刑すべき。」と結論した。そして、「彼を斬るのであれば、自分の首をはね
てから斬れ」と言って詰め寄った。この時、黒田はこの意思を示すため、頭を
丸坊主となった。
5)一方、木戸は「榎本の如き人間を赦すことは、虎を野に放す如きであるから、
断じて赦せない」と主張した。(先刻の記述と矛盾するが・・・。)
6)結果、最後に西郷に裁断を乞うことになった。西郷は「榎本を斬首するのは
もっての他である。彼が北海道に行ったのは徳川武士を率いて(即ち、陛下の
赤子を)救い、それによって大御心を安んじるためである。彼こそ、憂国の士
である。」とした。そして、1日も早く優遇して、新政府に重用すれば、必ず、
御国のために人物となる故、釈放せよ」と主張した。これにより、榎本の赦免
が決定した。
(3)榎本等の釈放
榎本は自分の命は捨てていたので、後に何か家族や日本の産業育成のために役
立つよう、一心に牢屋で働いていた。
1)1873年(明治5年)1月2日:妻・たつ、姉宛の手紙に仲間が一緒に広間に暮
らすことになること。正月にビールと新聞が送られた」ことを伝えた。
2)同年正月6日:榎本、松平太郎、荒井郁之助、永井玄蕃、大鳥圭介、沢太郎
左衛門が赦免された。

当方のコメント:
(1)榎本他5名の首謀者達は「死罪は免れない」と心していたので、入牢後は、
心の整理ができ、至って心穏やかであったようである。榎本の場合、余生を(死
罪となるまで)家族の後の生活のため、また、日本の産業育成の一助となればと
入手しにくい紙や筆を家族に入れさせ書いている。また、福沢に依頼して、化
学や鉱物等の外国図書を入手してもらい参考としていた。化学については榎本
の方が知識があり、(当時日本では彼が最高位であったと判断される)差し入れ
られた書物に不満を述べていた位である。紙に書くといっても明かりのない所
で苦労したことと推察される。
(2)内容は今日では大したものとは思えないが家内工業向きの起業の情報が中
心であった。模型を作ったりしたとの事で、彼は大変な努力である。囚人とは
とても思えない入牢生活であった。精神的には楽しかったに違いない。
(3)一方、薩長側の裁判の判決(当時は裁判制度がなかったので、廟堂と称す
る薩長トップの合議制)は長州側は理論派が多く、死罪と決めていたが、薩摩
側は黒田の運動もあって、解放論が多かった。最後はやはり西郷の一言で決ま
ったようだ。
本格的裁判制度であれば、逆に、有罪となり、反逆罪として終身刑は免れなか
ったと思われるが、逆に裁判制度がなかったが故に彼等を生かすことが出来た
と言える。
(4)また西郷の一言が最後に有効に働いたことは重要である。箱館戦争を起し
てなお、榎本が嘆願書を送っていたことが漸く理解されたこととなる。嘆願書
がその時受け入れられていれば戦争にならなかったと思われる。無駄に多くの
命が奪われたことは残念である。多分、榎本と西郷が面会する場面が(例えば、
西郷と勝との面談の時でも)あれば西郷の意見で希望は叶えられたと思われる。

2010/04/06

 その13(箱館戦争:終結(榎本軍の降伏))

さすがに、軍艦を失くした榎本軍は最後まで政府軍に抵抗するも、圧倒的数に押
され、残るは3拠点のみとなった。

1. 最後の決戦まで:
(1)榎本軍と政府軍とのやり取り:
・5月12日:この日夕刻、黒田は箱館病院に使者を送り、榎本等の降伏につい相
 談した。病院長・高松凌雲と病院係・小野がその仲介役を果すこととなった。
・5月13日:黒田からの降伏勧告書「天朝の思召は寛大である故、無益な抵抗を
 止める」との趣旨の勧降書を五稜郭の榎本と松平に送り、また、弁天砲台へも
 田島を使者として永井玄蕃等に同様の趣旨の降伏を勧めた。田島はまた、直に
 榎本にも会った。
・5月14日:榎本はその厚意に謝したが、降伏には応じなかった。この時、面接
 した田島は「榎本の人となりを壮」とし、涙を流し「惜しむべし、かくの如き
 士を瓦と共に砕かれんことを」と述べて別れを惜しんだ。
 一方、榎本は「明日また軍門にてお出会いすべし」と言って去った。永井も弁
 天砲台へ帰った。榎本は黒田に対して下記の趣旨の返書を送った。
返書の内容:
・たとえ、天朝が寛大であっても、今更降伏できないのは武士として当然であり、
 当初の願いが聞き入れらたなら、自分はどのような厳罰を受けても良い覚悟で
 ある。
・榎本がオランダ留学中、苦心した「海律全書」を日本の海軍の将来のために役
 立てたいのでこれを寄贈する。」と申し出た。

(2)榎本軍側内部の動き:
この後、榎本は「海律全書」を無事、黒田へ渡したことで榎本は「全てが終わっ
た。」とし、「今や華々しく最後の一戦を試み、潔く散るのみ」と考えた。そし
て次の動きに出た。
・5月13日田島との会見後、五稜郭に戻った榎本は政府軍の許可を得て、部下の
 内、傷病兵250名に金子を与え、湯川村に退かせ、そこで温泉治療を受けさせ
 た。また、年少者に向かっては前途ある身であるので、帰順し、皇国のために
 尽くすよう勧めた。
 この時、15才の田村銀介が立って反論したので、彼を許し決戦することを決意
 した。
・一方には、その夜、勝見込みがないと恐怖した兵士は密かに筏を作り、五稜郭
 の濠を渡り、降伏するものがあった。この後、榎本は最後の決戦に腹を決めた
 者のみで決戦することとして、脱走者のために門を開けて逃げさせた。


(1) 最後の決戦の状況
5月15日:政府軍は海陸合わせて弁天砲台、千代が嶽および五稜郭を総攻撃した。
・弁天砲台:永井以下の将兵は数日来の戦闘のため、食糧が尽き、兵卒が疲労し
 たので、衆議の結果、降伏を申し出た。ただし、五稜郭には連絡できず、知ら
 されなかった。
・千代が嶽:政府軍の砲火に屈せず、老将・中島三郎助は2人の息子と共に敵陣
 に討ち入り、戦死した。そして、翌朝千代が嶽は陥落した。残兵は五稜郭に逃
 げた。
・残る五稜郭:決戦体勢でいたところ、黒田は使者を派遣し、何時に戦闘開始す
 るか、また、弾薬や兵糧が不足であったら、送っても良いと申し出た。榎本は
 感謝しつつも、これを拒否した。
・さらに、黒田は前日、榎本が贈った「海律全書」の返礼として酒5樽に書状を
 添えて、榎本に贈り、榎本の好意に報いた。
・榎本は贈られた酒樽を開け、将兵の労をねぎらい、また決別の杯を交わした。

  この時、榎本は討ち死にを覚悟であったが、将兵は疲れ果て、気力のないの
を見た時、榎本は彼等を率いて決戦することの無益を悟った。

2. 降伏
(1) 榎本軍の動き:上記の考えの結果、かれは使者を使って密かに降伏の書
を伝えた。
・同時に、彼は自ら一室に退き、小姓・大塚に介錯を命じ、切腹をするため、腹
 に刃を当てたが、大塚の必死の押さえと騒ぎに駆けつけた者たちに阻まれ自刃
 を果たすことができなかった。この時、止めた大塚は白刃を素手で握り締めた。
 榎本はこれを引き抜き続行しようとしたため、大塚の手から血しぶきが飛んだ
 と言う。本気で死ぬ気であったことを物語る。
・この騒ぎの後、松平、大鳥、荒井の三将を集め、今の場合「降伏が大義に通ず
 る」理由を話し合った。結果「幕末に意義有らしめるため、我々が武士の面目
 に固執するならば、は八百の壮者は喜んで全滅してくれる。・・・。しかし、
 この戦意を失い、疲れ果てた限りある兵の命を顧みることなく六十余州の大敵
 に当たるは誠の武士が取るべき道でない。・・・・。すべからく我等が面目を
 犠牲にしてわれ等の外は全て無罪解放の条件をもって官軍に降り、われ等は謹
 んで重き天裁を仰ぐのが至当である。」として了解がついた。
・その後、将兵一同にこの旨を告げ、彼等を諭した。彼等は騒然となって、直ぐ
 には彼等は応じなかったが、幹部の誠意ある説得に最終的には悟り、一同号泣
 してその意に従った。
・榎本は早速使者を黒田の元に送り「明朝6時までに攻撃を中止。」を乞うた。
・翌日その時刻に榎本他幹部4名が出頭して降伏を申し出た。
・午後2時には政府軍への武器引渡しを終え、彼らは五稜郭を出発し、網かごに
 乗せられ、箱館に連行された。この間武士の扱いとして帯刀を許され箱館の政
 府軍本陣に着いて刀を手渡した。

当方のコメント:
この項の最初に述べた通り、武士道に則り、双方戦い、ついに敗れた榎本軍は、
初めて武士としての扱いを黒田から受けた。色々戦闘場面で武士たる者として印
象強い場面はあるが、やはり最後の降伏の榎本と黒田のやり取りは美談であり、
お互いに友情を感じて終生忘れることはできないであろう。これが後に、黒田の
働きで、榎本が生きながらえることとなる。
このことは、お互い日本人であるからできたことであると思う。将棋の駒にたと
えると捕獲した駒を生かして使う文化だからできたことと思う。
またこれは薩摩の黒田だからできたことと言える。(この影には西郷があった。
)人情に厚く、人間の心理を読める黒田だからできたことともいえる。そして結
果数名の命が救われ、後の新政府(北が苦手な薩・長)にとって、北海道開拓等
に向けて、かけがいのない人材を得たこととなる。

2010/03/26

その12:箱館戦争 (後期:終戦まで:その1)

I.1869年3月末から:政府軍の蝦夷地上陸作戦
1.政府側動向:
・1869年3月末:政府軍・陸軍部隊は軍艦の青森到着前に、青森周辺に集結した。
 (長州、備前、岡山、薩摩、松前、その他合計7千名、人夫を含め1万人弱とな
った。)
・3月26日:政府軍艦が青森に到着した。その他外国船3隻が輸送船として入港し

・4月4日:上記諸兵を蝦夷地に渡海させることを決定し、薩摩・山田顕義を陸・
 海軍参謀とし、長州他諸藩の兵1500名と大砲6門を輸送船に分乗した。これに、
 甲鉄艦他計7隻の軍艦がこれを擁護して出航した。
・これらは箱館に直行せず、乙部へ向かった。

2.榎本側の動向:
下記の蝦夷各地に兵員を分散配置し、戦闘態勢を整えた。ただし、乙部には兵を
置かなかった。
・松前、江差、箱館に300名、五稜郭から松前の間(茂辺地、当別、木古内等)
要所に700名余、室蘭に250名、鷲の木に400名、五稜郭に榎本等幹部の他500名余
を配置し、合計2900名であった。

・海軍力:回天、幡竜、千代田形丸の3隻は箱館湾内を警備し、長鯨は室蘭に停
泊していた。

・箱館市内は戦争勃発の噂を聞いて大騒ぎとなり、山へ逃げ出す者もあった。ま
た、外国船は中立を守り、津軽に移動した。

3.政府軍の上陸
・4月9日:政府軍は乙部に上陸した。榎本軍は守備兵はいなく、抵抗はなかった。
 また、政府軍は海軍の応援を受けて、江差に向けて南下した。榎本軍の松岡、
 ビュフェ等の守る江差を攻撃した。榎本軍艦の旧砲は敵艦に届かず、敗れた。
 そして、松前に撤退した。
・政府軍は2手に(松前と木古内を)分けて攻撃した。
・4月12日:大鳥や土方の抵抗に政府軍苦境に立った。
・4月13日:仙台、長岡の脱走藩士400名が英艦に乗って箱館に入り、榎本軍に加
 わった。


II. 上陸後の戦況:
 戦闘は一戦一戦が興味深いが、ここでは大筋のみとする。映画のシナリオ原稿
であれば追加する必要があろう。 特に、榎本軍側から見た「滅びの美学」と思
われる場面が多々ある。例えば、土方歳三の死、遊撃隊・伊庭八郎の死、回天、
幡竜丸の奮闘、弁天砲台での激戦、中島三郎父子の死である。これらは将に武士
道の鑑と言って差し支えない。(外国人には驚愕であり、理解し難いところであ
る。)
1.政府軍との交戦:
 仙台からの脱藩兵士の参加を得て、榎本軍は勢いを得、政府軍は押され気味と
なった。そこで、政府軍は青森に滞在している2000名を増派することとし、黒田
清隆がその統率に当たることとした。
・4月16日:黒田率いる2000名は江差に到着した。また、前日に朝陽丸が青森に
 入港し、政府軍を応援することとした。この援軍は木古内、二股口、松前に分
 けて政府軍を強化した。
(1)福山の戦い:
大鳥とカズヌープが守っていたが、占領され、大鳥部隊は木
 古内に退却した。榎本軍の方が死傷者が多かった。
(2)木古内の戦い:
 4月19日:政府軍は頑強に戦う榎本部隊を海・陸から攻め、木古内を落とした。
 榎本部隊は矢不来に退却した。
(3)箱館湾付近での戦い:
・4月24日:政府軍艦は箱館港に突入し、榎本軍艦や弁天砲台と交戦したがつい
 に引き返した。一方、榎本軍が茂辺地へ退却した。
・4月28日:政府軍・清水谷総督は青森を出て、江差に本営を移した。

・4月29日:矢不来への政府軍の進出を防ぐため榎本軍に榎本自身も応援に駆け
 つけたが、政府軍艦からの砲撃で打ち破られ、榎本の全軍は七重浜に退いた。
・また、二股口の榎本軍(土方率いる)は退路を絶たれるのを恐れ、五稜郭と箱
 館に退いた。
・同日、夜間、千代形丸は闇に迷って弁天岬の暗礁に乗り上げたが、夜間必死で
 離礁できた。しかし、翌朝、政府軍に捕獲された。これで、榎本軍の海軍は回
 天と幡竜の2艦のみとなった。
・一方、政府軍艦は5月2日に延命艦が加わり、合計8隻となった。従って、榎本
 軍が得意とする海・陸両面作戦は不可能となった。
・しかし、それでも、陸軍は苦戦はしたが、特に大鳥部隊は七重浜を死守し、政
 府軍の五稜郭への進出を防いだ。

2.箱館港の海戦
 榎本海軍は回天、幡竜の2隻のみ、政府軍は甲鉄艦以下8隻であり、戦いになら
ない状況であった。
・5月2日:政府軍艦は箱館港に入港した。しかし政府・陸軍が進まなかったため、
 一旦退いた。
・5月4日:「一市民が弁天砲台に進入し、大砲の火門に釘を打ち込み、発射不能
 にした。」との情報を得て、政府軍艦は再び箱館に入港し、回天、幡竜と交戦
 した。榎本が来襲に備え海中に仕掛けた大索のため政府軍艦は航行できなくな
 り、退却した。
・5月7日:このため、政府軍は水夫を雇って、大索を切断し、港内の総攻撃を開
 始した。
 甲鉄、春日、朝陽の3艦は6時に港内に入り、回天、幡竜と対峙し、他艦は弁天
 砲台を攻撃した。この戦闘は以下のように激烈を極めた。
・回天は甲鉄艦および他艦から合計80発の砲弾を受け、さらに機関にだ大破損を
 受け、運転不能になった。このため、回天は浅瀬に乗り上げ、砲台として応戦
 した。
・幡竜も回天に負けず奮闘した。このため政府軍は引き上げた。
 この夜、幡竜は機関の修繕が成功し、復旧した。しかし、たった1隻となった。
・5月8日:榎本は海戦の不利を認識し、政府陸軍の撃滅へ向け、作戦を変えて大
 鳥と共に兵800名を率いて官軍の居る七重村を急襲した。しかし、政府軍の
 スパイにより知るところとなり、途中で撃退された。
・政府軍は海・陸合わせて大挙して箱館と五稜郭を総攻撃することとした。
・5月10日:夜、黒田は兵300名を率いて、箱館山下の海岸に上陸し、次の作戦の
 ため潜んでいた。
・5月11日:午前3時甲鉄、春日の2艦は弁天砲台と回天を砲撃した。この戦いは
 激烈を極めた。ただし、一時幡竜が発した砲弾が政府軍艦・朝陽の火薬庫に命
 中し、同艦は爆発し、沈没した。しかし、大勢は多勢に無勢で土方は戦死し、
 榎本軍は残り、五稜郭と千代が岳のみとなり夕方戦いは終わった。
・5月12日:政府軍は榎本軍の残る3拠点を攻撃したが、榎本軍は頑強に抵抗した。

著者コメント

1.榎本軍は海軍が優れていたにもかかわらず、2隻が残るのみとなり政府軍艦
8隻(その内甲鉄艦)を迎え撃つこととなる。しかし、それでもこの榎本軍の2
隻は獅子奮迅の戦を行なった。その一つは幡竜から発射した弾丸が朝陽丸の火薬
庫に命中し同艦は爆発して沈没した。それが唯一の戦勝である。
2.榎本の陸軍は土方の奮闘もむなしく敗れ、弁天砲台、五稜郭の拠点のみとな
る。
3.政府軍は最後の戦場として函館湾からの砲撃を行なうこととなった。
4.政府は最初裏をかいて乙部に上陸した。榎本軍としては限られた人間を集
中して配置させるしかなかった。容易に上陸させる事はやむをえないとはいえ、
不利となったことは間違いない。

2010/02/07

箱館戦争(中期)

1. 政府軍の攻撃準備状況と榎本側の政府軍攻撃への対策
(1)政府軍は青森に軍隊を益々増強し、集結させ、榎本軍の来襲に備えた。
(2)新政府は東京で米国から甲鉄艦の入手、列強とは局外中立解除を交渉し
   続けた。
 1868年12月28日:この解除に成功した。ただし、この解除は北海道には及ばな
 いとした。即ち、北海道での局外中立は保たれた。
(3)1869年1月中旬:榎本が英仏艦長に託した嘆願書が却って、朝廷を侮辱
 するものとして却下されたことを榎本等は知った。これを受けて、政府軍の攻
 撃を迎え撃つ以外に方策なしと覚悟を決めた。
 これ以降、箱館の病院に入院していた政府軍の傷病兵や松前藩降伏兵の内、内
 地に帰ることを希望する者数百名を船で送還した。榎本は戦時国際法の則り、
 公正に処置した。当時は未だ、捕虜に対して残虐な風習であったが、榎本は国
 際法に通じていたため、公正に扱った。なお、政府軍参謀・黒田清隆は榎本の
 この様な行為を見て、彼の人物を見抜いていた。
(4)甲鉄艦が戦闘に加わることを知った榎本はこれに対抗するため、甲鉄艦の
 装甲を打ち抜くため、56斤砲の弾丸の先端に尖った甲鉄を鋳造し、これを回
 天丸の砲に据え、試射に成功した。榎本の考えでは、甲鉄艦を200ヤードの
 距離まで近づけて砲撃すれば命中し損害を与えられるとした。

2. 政府軍側の対応
(1)2月3日:米国と甲鉄艦の譲受について交渉を重ね、ついに、買い上げが決
 定した。
(2)2月23日:青森の陸軍を応援するため、増田明道を参謀として、甲鉄、陽
 春、春日、他、計8隻を進発することとした。
  3月9日:品川沖を8隻は出航した。

         (その11)宮古湾海戦

政府軍は前述の通り甲鉄艦と合わせて8隻の軍艦を北海道に向かわせた。途中、
宮古湾へ立ち寄った。
1.3月18日:政府軍海軍は南部藩の宮古湾に到着した。これを榎本は間諜を通
 じて「政府軍軍艦8隻が品川を出航し、17,18日に宮古港に入港する」ことを
 知った。
2.榎本等幹部は会議し、回天艦長・甲賀の強硬な主張に従って「甲鉄艦奪取」
を決定した。これは榎本も同意見であった。要領は回天、幡竜、高尾の3艦で襲
撃する事とし、荒井郁之助を提督、甲賀を回天艦長、土方を陸軍都督として陸兵
隊も乗り組ませた。
3.戦略:
(1)宮古湾侵入の際は各艦外国旗を掲げ敵艦を安心させ、発砲の直前、旭日旗
 に改めることとした。
(2)入港と同時に、幡竜と高尾は甲鉄艦の左右舷に横付けし、味方の兵は全て
 合言葉や鉢巻をし、同士討ちを避けて、不意打ちをかけて攻めることとした。
 回天は他艦を攻撃して、甲鉄艦を救われないようにする。
(3)フランス教官・二コール、アボルダーシ等に接舷攻撃の訓練をさせ、同時
 に、彼等を幡竜、高尾へ乗船させた。
4.乗っ取りの実行:
(1)3月20日:夜12時、3艦は箱館を出航し、宮古に向かった。また、船上では
 ニコール等によって兵に艦内攻撃の訓練を行った。
(2)3月21、22日:天候良好であったが、23日波風高くなった。
 3月24日:風収まり、回天と高尾は米国旗、ロシア旗を掲げて南部大津港に入
 った。
 ただし、幡竜は未だ入港せず、従って、作戦を変更した。高尾が甲鉄艦を襲い、
 回天が他艦を攻撃するとした。
 同日:両艦出航するも、高尾丸が途中、機関に故障を起こし、航速遅くて遅れ
 た。
(3)3月25日:回天のみ宮古港に到着したが、高尾丸の到着を待つが夜が明け
 てしまい、発見を恐れ、回天丸のみで甲鉄艦を襲うこととした。将に、1艦で
 8隻に当たることなる。(気概は良いが、無理であろう)
 「榎本武揚」の著者・加茂によれば「榎本軍の 勇猛果断振りはトラファルガ
 ー海戦におけるネルソンとその海兵に比すべきも のとして、世界の海戦史上
 にその名を止めた」と言う。

  回天丸は1隻で8艦相手に良く攻めたが、結果は甲鉄艦を奪取できず、指揮を
 していた甲賀はこめかみを打ち抜かれ戦死した。この戦闘で乗っ取はあきらめ
 て、回天は無事脱出できた。この間約30分であった。また、甲鉄艦への砲撃で
 は弾丸が甲板を撃ち抜けず、弾ははじかれたと言う。
 また、高尾丸は宮古に向かいつつ漂流していた。このため、政府軍艦に発見さ
 れ、追いかけられ、南部・田ノ浦の海岸に乗りつけたが、砲撃され自焼し、沈
 没した。乗組員は捕虜となった。
 
当方のコメント:
(1)宮古湾作戦は、結果論であるが、無謀と言わざる得ない。特に、作戦は3
 艦で行うところ、実際は、たった1隻で行った。結果は攻撃したと言うだけで、
 戦果はなく、むしろ2艦を失う結果となっている。物語りとしては胸躍り、楽
 しいが作戦としては無謀で、これを承知で行うのが、榎本流とも言えるが、褒
 めるわけにはいかない。
 思いつきや感情論に押し流される傾向がある。クリティカルシンキングが足り
 ない。
 この点では典型的な日本人である。勝には勝てない。

(2)しかし、強いて言えば、もし3艦がそろって攻撃できていれば乗っ取り
 は作戦通り、出来たかもしれないが、実際は勝利できなかった。この理由は敵
 にあるのではなく、艦の操船や嵐に見舞われる等のアクシデントにあるが、機
 関の故障も影響している。この様に操船する能力やメンテおよび操船訓練が不
 足していると言える。時間との戦いでもあるが、むしろじっくりこの方の訓練
 に時間をかけるべきと考える。

(3)もう一つ言えることはお互いの連絡手段がなかったことである。榎本はオ
 ランダ留学時、無線機を2台購入しており、開陽丸に搭載していたと言う、し
 かし、開陽丸に積んでいて、1隻にしかなかったので実際には使われなかった。
 また、開陽は沈没してしまい。同時に、この電信機も失われた。これが有効に
 使われていたら、見方の艦がどのような状況であったか分かり、別な作戦を取
 ったかもしれない。時代がこの様であったと言うしかないが榎本にとって無念
 であったと言える。

(4)この他、戦いぶりとして、宮古湾内に入る時、軍艦に列国の旗を掲げ、
(これは敵を欺くため当然であるが、)戦闘直前に(国際法に則って)"章日旗"
 に換えるなどは、榎本の外国で得た知識と律儀な性格を物語っていて面白い。

(5)今日、タリバン等のテロリストなど米国の戦闘が続いているが、前記の榎
 本のようであればテロリストとは呼べなくなる。また、太平洋戦争で日本側の
 戦闘開始宣言が遅れたため、卑怯呼ばわりされた。この意味ではこのよう行動
 は現代では極めて重要なことと思い知らされる。

(6)日本人の考えの中に伝統的に"判官びいき"があり、あだ討ちと言う名の下
 にリベンジをすることを"良し"または"義"とする傾向がある。具体的には「忠
 臣蔵」の例があり、歌舞伎にも取り上げられ、大石内蔵助以下47士は半ば英
 雄扱いである。しかし西洋ではこれは容認されず、"卑怯"となる。グローバル
 社会で生きる現代日本人はこれを心に刻む必要がある。考えてみれば、北朝鮮
 の行為を我々は認めないにと同様であると思います。この点で、榎本の行為に
 学ぶべきであると考えます。

2010/01/29

(その11)箱館戦争(中期)

箱館戦争・前記の最後で述べた通り、1868年11月から3月末の約5ヶ月間蝦夷に平和
が訪れた。この間、榎本は春からの攻撃の対策と蝦夷地経営に乗り出そうとしていた。
1.政府への蝦夷経営の了解工作
1868年11月初め:英、仏の軍艦は箱館へ入港した。両軍艦艦長が箱館運上所に出頭
し、両国領事を伴って、榎本、永井と会見した。やり取りは以下の通り。
・両艦長は書面にて「今より、蝦夷島を"ディファクトの政府"(現実に政権を握 っている
新政府)として承認している」旨を読み聞かせた。同時に貿易のこと につき「如何に取
り決めるか」を打診してきた。
 これに対して、榎本は下記回答した。これにより彼の考え方および交渉能力が 知る
ことが出来る。
①「新政府と言われては迷惑千万、この島は純然たる日本の天皇陛下の領土であり、
我々は忠良な、天皇の臣下である。独立など思いもよらない。貿易や国交
は我等の扱う事柄ではない。」と回答した。
②「では、何故、北海道へ渡来したのか」と理由を問われ、「生活に苦しんである旧・徳
川家臣に暮らしが立つようここに来て、開拓し、産業を興して皇国に
役立ちたい」また「戦いは望まないが、誤解のため交戦した。」とした。
③ 両艦長は同情し、明治政府に了解の斡旋の労を取りたいと話した。
12月20日:そこで、榎本は新政府への嘆願書を作り、両艦長へ託した。同趣旨
の嘆願書は英仏公使にも送られ、両公使は11日に政府に伝達した。
政府側対応:
① 両公使からの嘆願書は一応預かったが、14日にはこの書面を「不敬、不遜、
我国体に反するもの」と各公使に回答した。
② 両外国の立場:
外国は榎本軍に対し、中立を宣言し、同時に、箱館の各領事は榎本を同地の政
府として承認していた。また、外国からは一政府として礼遇を受けた。――日
本史上特筆すべきことである。

2.共和国政府の樹立
朝廷において嘆願書が無視されていることを知らない箱館では、以下のように行動
していた。
・1868年11月15日:蝦夷全島平定の祝賀祭を開催した。各国領事へ通達し、当日、
軍艦と砲台より101発の礼砲が発せられた。昼は艦船に五色の旗が翻えり、夜は 市
街に火灯を掲げて祝った。
・榎本は各領事や港内に停泊の英仏艦長等と会見して、箱館港の交易について従来
通りとし、港内の事務決済をすることを決定した。ただし、外国船には港税
を課した。(従来は無料であった。)
・仮の政府の樹立に着手した。(アメリカの制度に倣った。)
1) 仕官以上の者に入札(選挙)させて、下記の役員を決定した。
 総裁:榎本  副総裁:松平太郎  軍艦奉行:荒井郁之助
 海軍奉行:土方歳三   陸軍奉行:大鳥圭介
 開拓奉行:沢太郎左衛門 以下200人を室蘭へ移住させ開拓に当たらせた。
1. 蝦夷の経営(経済)
軍資金が不足し、困窮していた。
(1)兵隊の給料:安い。一人月1両1歩(今の額で千円)一方、物価が高かっ た:内地
からの物資、特に米や野菜等の生活必需品が途絶えたため。
(2)統率力:榎本軍の兵員数:3千500人(フランス人10名)
 この様な状況の中で、また寒冷地で勝つ見込みのない乏しい戦争で最後まで戦った
のは榎本の魅力と統率力によるものと思われる。
(3) 収入
 市内:財政難のため、住民から徹底的に金を絞り取った。このため市民の間では榎
本武揚をもじって「榎本・ブヨ(虫のこと)」と悪口を言われた位であっ た。また、賭博、
売春婦にも課税した。従って、榎本軍は必ずしも市民には評 判が良いとは言えなか
った。
通貨:二分金を鋳造して通用させた。いわば偽金であり他国には通用しなかった。
外国船:入港税徴収した。しかし、一部外国船から反対が出て、万国公法を  持ち
出して説得した。ただし、それでも納得せず、決闘を申し込まれ、受けて 立つとして
相手を納得させた経緯もある。 これにより彼の外国人へもコミュニ ケーション能力
が優れていたことが分かる。
(4)榎本の苦悩
 榎本の行動(蝦夷地支配)の大儀名文を如何に立てるか日夜苦悩していた。
(5)七重村開墾条約とガルトネル事件
 1)産業育成:
  このつかの間の平和の時期、榎本は前記の通り、政府軍の来攻に備えると同時
に、産業 育成のため、蝦夷地開拓を心がけた。
 ①武器の製造のため、必要とする砂鉄精錬所を箱館付近に作った。一つには、 
甲鉄艦対策として、甲板簿の鉄板を打ち破れる弾頭を作る必要があった。
 ②開拓は沢太郎左衛門を開拓奉行に据え、彼を室蘭に置き、屯田兵を指揮させた。
 2)ガルトネル事件
 ことは榎本が占領する以前から発生した。
 ①慶応3年(1867年)2月:杉浦・箱館奉行が弟のシー・ガルトネル(プロシャ副領事)
  と捕鯨について話し合った経験から同奉行は箱館付近の田畑試作を  頼んだ。
 その折、彼が自分の兄が欧式の農機具で開墾すれば日本にとって非常に有利にな
 ると説明し、土地の貸与を願い出た。
 (この時代、外国人が居留地以外の土地を借りることは禁じられていた。)
  彼は無理に頼んで、亀田村一角を借り、本国から農機具を輸入して農場を開いた。
 ②明治新政府時代:その後、幕府は倒れ、明治新政府となり、箱館は新政府統治下
 となった。ガルトネルは箱館府を説いて、農場を拡張し、また、箱館府  の一雇用
 人として七重村開墾開始の契約をした。

著者コメント
 蝦夷を占領するまでは、榎本軍は順調と言えた。しかし、厳しい冬を迎え、約3000
名の将兵を生活させ、かつ、春に攻めてくる政府軍に備えなければならない。財政は
厳しい、幕府から持ち出した銭は十分ではない。従って、住民から税金として金集め
をせねばならない。住民から見たら、榎本軍は厄介者としか写らなかったに違いない。
榎本軍は「榎本ブヨ」と揶揄されたにはこのことを意味する。それに、蝦夷(箱館)の
住民は東北地方と違い、幕府側の見方ではなかった。戦いまでに短期間であったの
で、住民としても榎本軍になじまなかったに違いない。後に出てくる箱館湾での海戦で
も、住民は、榎本軍が海中に張った防護索を切って、政府軍をおびき寄せたり、また
夜陰に乗じて榎本軍が使っていた砲台を釘付けして、政府軍に味方した。榎本軍とし
てはもっと住民への懐柔策を必要としたと思う。もっとも、住民は、開陽丸やその他海
軍力を失いつつある榎本軍を見放したといえる。
しかし、一方で、榎本は将来への蝦夷地での通商や産業育成を考え、沢太郎左衛門
を室蘭へ派遣して、開拓奉行としていた。また、新政府軍のあたらな軍艦・甲鉄艦へ
対抗するため、砲弾を強化する必要から、砲弾の改良を行うなど、軍事訓練を含め、
短期間ではあるが、やるべきことは行っていたといえる。単なる精神論や特攻精神で
はなかった。また、本気で、蝦夷地開拓を行うことを考えていたといえる。