2010/07/16

15.2 ロシア滞在時代

前々回:黒田や福沢の尽力で死罪を免れ、出獄することができました。
前回は:出獄後、暫くして、当時北海道開拓使長官であった黒田から、強い希
望で彼の下の開拓使を命ぜられました。初めは辞退していましたが、最終的に
は承諾し、明治新政府役人として第一歩を踏み出すこととなりました。
今回はこの後、新政府からの要請で外務組織を作り、外国との通商条約を締結
したり、不平等条約を改正するため、彼が抜擢されます。

15.2 ロシア滞在時代

1.新政府、外交組織を新設する。
 1870年(明治3年):新政府は独立国として外国との関係を如何に築くかが問
われるため、下記のように外交組織を作った。
・外務省に大弁務使(特別全権公使)、
・中弁務使(弁理公使)、
・少弁務使(代理公使)
しかし、組織は作ったが、その職に当たる専門外交官がいなかった。当時、新
政府の役人は、維新成立に寄与した人材が選ばれており、多くは軍事的指揮や、
天下国家を論じる国士であった。このため外国との政治的折衝を重ね相手を納
得させる様な人物(政治家)に欠けていた。また当時、外国使節は日本の立場
や事情を考慮せずに傲慢に出るケースが多く、役人にとって、この様な外国使
節を相手にすることは、日本の役人が最も苦手とするところであった。

2. 新政府の外務省の職務
 新政府は下記の諸問題を取合えず、課題として取り組む必要があった。
(1)和親条約の改正の必要性
 国内的問題として、江戸時代末期に結ばれた不平等条約・和親条約を対等な
 条約として改正することが大きな課題であった。
(2)ロシアに対する脅威感
 サハリンでのロシア人の南下や暴力等、黒田が視察して、あと3年しか保てな
 いと判断した位、脅威を抱いていた。
(3)中国に対する脅威感
 その前に、中国や朝鮮との通商条約に基づく修交関係がなかった。無論、無
 条約のままで済まされないので、国際法上、対等な関係(独立国としての)
 を結ぶ必要があった。
 また、国内では征韓論など朝鮮に対しては威圧的態度であったが、朝鮮の背
 後に中国が存在するとする恐怖感があった。また、中国は「眠れる獅子」と
 しての恐怖感も存在していた。

3.カラフト問題の解決
 1869年:日本人は樺太・南部に、ロシアは樺太・北部に住んでいたが、ロシ
ア人は時折、南下し、占拠していた。日本はこれに対し、北緯50度以南の領有
を主張続けた。
日本政府としての対ロシア対応:
ロシア人の樺太における 日本人への態度は益々悪化した。例えば、カラフト
・函泊の日本人所有倉庫を放火し、暴行を働いた。
 この様な状況の樺太問題で政府は対応を急ぐ必要があると判断した。
 また、当時、黒田は北海道開拓がロシアの侵入の防波堤になるべきと意識し
 ていた。
新政府は以下のように対応することとした。
1)1869年:蝦夷地開拓の詔勅が出される。
 これはロシアの侵入に対する対策とするものであった。
2)新政府は「榎本の反乱軍がロシアと組むと大変なことになる」と心配した。
 このため、政府はロシアとは衝突を避ける態度をとった。
3)1870年:新政府は樺太開拓使を置いた。黒田を開拓使次官として調査を行
 わせた。 黒田は8月にカラフトに赴任し、調査を開始した。
4)黒田の調査結果:
・このままでは今後3年しかもたない。
・むしろ、北海道開拓に重点を置くべきとした。
・樺太開拓使を廃止し、北海道開拓と同じ行政管内で行わせることとした。

(1) 榎本のロシア駐在、ロシア特命全権大使就任
 箱館戦争終了後、新政府は先ずカラフト問題を解決すべく、下記の目的で榎
 本を起用することとした。
・カラフトでの雑居の状況でのトラブルを解決し、カラフトの帰属を決定する。
・その上で、カラフト移民500数十人を北海道に移転させる。
・カラフトを千島列島と交換することを腹案とした。
1874年:前記カラフト問題解決のため、黒田の強力な推薦により、ロシア交渉
に向けて、榎本がロシア特命大使に選ばれ、かつ対外的"箔"を付けるため彼は
海軍中将に任ぜられた。これは、当時ヨーロッパでは外交官の社交界では将官
の位が重視されたためである。
一方、かれは二度と海軍に入らないと考えていた彼にとっては皮肉である。ま
た、派遣される榎本の意図は「先ず、ロシアに対する日本人の恐怖心をほぐす
には、シベリアを踏破して、その実情を究めることが必要」と考えた。駐露特
命全権大使を引き受けた理由もシベリア調査の意図があったからである。
大使就任後直ちにロシアに向かう。全権一行、インド洋経由、スエズ運河を経
由しベニスから汽車でパリ、オランダ経由してロシアに入った。
1874年5月28日:榎本はベルリンへ入った。その後、ロシア入りした。
同年7月18日:ロシア・アレキサンダー2世に謁見する。

―以降5年間、1882年まで、ロシアに滞在し、ロシア国内の実情を目撃した。―

1874年6月22日:第一回会談:ロシア側:スツレモーレフ(外務省アジア局長)
との顔合わせ。
8月第2回交渉:本格的交渉を行う。
11月:両国の意見が明示された。
その後、数か月間、数回交渉を行い、榎本は政府訓令の基に千島列島との交換
を承諾し、条約締結に漕ぎ着けた。
1875年5月:セント・ぺテルスブルグで樺太・千島交換条約に調印した。
1875年8月22日:日本政府、東京で樺太・千島交換条約を批准した。
ただし、国内では榎本の弱腰外交として非難された。
ロシアでは榎本はアレキサンダー2世に厚遇された。また勲章を授与された。
1875年11月3日:ロシアで日本公使館完成時、ロシアの諸大臣を招いて祝宴を開
いた。

参考:アレキサンダー2世・治世下でのロシアの出来事:
・1855年ツアーに即位、クリミア戦争で敗北し、屈辱的講和をむすぶこととな
 った。しかし、その後、在位27年に及ぶ。ロマノフ王朝の近代的名君として
 評価されている。
・1861年:農奴解放を行った。(ロシア農業の近代化の第1歩)
・刑事犯と民事犯を行政から分離し司法(裁判所)に移して明朗化を計った。
・教育を盛んにし、鉄道を敷設し、鉱山開発を行う等産業の近代化を進めた。
・1873年:ドイツ、オーストリアの皇帝と三帝同盟を締結し、イギリスの大陸
 への影響を阻止した。
・1877年トルコと戦争し、勝利した。サンステファの条約締結(この時期、こ
 れらを榎本は目撃している)

著者コメント:
先ず、榎本が何故、帰国するに当たり、馬車でシベリア横断することを思い付
き、皇帝に願い出て、交渉し、許可をもらい、実行に移す。この発想、交渉力
と行動力に驚嘆する。

現在、外交官にこれをやれと言ったらできるだろうか?できない理由を探し、
交渉したが、拒否されたと言ってやらないであろう。

下記2点を考える。
1.なぜ、榎本はシベリア経由の帰国を考え、実行したのか?
2.榎本が何故アレキサンダー2世から好まれ、厚遇を受け、さらにシベリア経
 由帰国を許したのか?

・1項に対する意見(考え):
 かれはロシアとの交渉に当たり、日本国内にロシア恐怖症があることを懸念
していた。これを払拭したいと考えて、実情を調査すべきと判断した。旅行中、
皇帝の許可証が各種調査に役立ったことは言うまでもない。
・2項に対する意見(考え):
 皇帝から榎本は交渉を通じて信頼され、最後には勲章まで授与された。
この信頼関係が交渉の上でも、また、旅行の許可を得る上でも決定的となっと
考える。
さらに細かく見ると下記が挙げられる。
1)榎本の語学力(ロシア語をも話せた)で率直に意見を言えた。
2)榎本の人柄(日本人にしては、背が高く、威厳があった。しかし愛想よく
 誰にでも好かれた。)
3)オランダ留学の経験から、外国人との接触に慣れしていた。相手への配慮
 や、考え方を理解していた。
4)決してロシア人を恐れず、対等にふるまった。これができた人であった。

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