2009/02/16

榎本武揚の生涯と時代(その2)

1.はじめに 今年初めから、榎本武揚について下記の観点から調査し、まとめたものを毎月、 本メルマガに掲載して行く予定です。将来、英文に翻訳し、外国人に彼を紹介し て、"知られざる国際的日本人"として彼らの日本人観を一変させたいと思ってい ます。 取りあえず、徐々にまとめ、メルマガにて出力していきたいと思いますので、ご 興味ある方は最後までお付き合い願えれば幸いです。 (目的) 明治時代にありながら、かつ日本人でありながら、日本人にないスケールの大き な国際人としてまた、21世紀に生きていても不思議でない位の存在感と活躍ぶ りを紹介したいと思っています。また、国際人を育てるには帰国子女や学童をど のように教育すべきかを検討する材料としたいと思っています。 2.オランダ留学への旅の始まり 1860年(万延1年)1月:小栗、勝他、計約百名が米軍艦・ポーハタン号および咸 臨丸で米国へ向け出航し、米国をつぶさに見、大統領と接見したりして、5月に 帰国した。なお、咸臨丸で行くことは長崎伝習所・勝が「日本の軍艦を派遣すべ き」と強硬に主張し実行されたものである。とは言え、勝は渡航中、船酔いに弱 く大分参っていたと言われるが、ともかく日本人の手で、初めて太平洋を横断で きたことは大きい。一方、榎本はこれには乗船していなかった。 この間、この年3月に、桜田門外の変が起き、井伊大老が暗殺された。幕府が混 乱の時代に入った時期である。 また、小栗は帰国後、陸・海軍の充実、造船所建設、殖産技術の奨励するなど、 革新的な政策を用いた。しかし、尊皇攘夷派の過激な活動で邪魔され、成果を発 揮できなかった。 1861年(文久1年)1月15日:老中・安藤、坂下門外で切られ、辞職する。 2月:ロシアの軍艦が対馬を占領したが、イギリスの力を借りて兎も角もロシア 軍艦を去らしめた。これで益々、長州等の尊王攘夷派が刺激され、彼らの活動で 幕府は益々、混乱した。 同年11月:江戸幕府は、海軍力強化のため、米国に、蒸気軍艦3隻および留学生 を送って外国事情を見学、勉強させることを決定した。この留学生の中に、榎本 武揚が入っていた。しかしながら、この年には米国では、南北戦争が勃発してい た。従って、米国では戦争がさらに進み、対応できなくなり、断ってきた。 1862年3月:幕府は従来から良い関係にあるオランダに打診し、軍艦1隻を注文し、 同時に留学を受け入れを要請し、受け入れられた。無論この人員の中に榎本がお り、林等の医者を含め合計14名が留学することとなった。 1862年6月:榎本をはじめとする留学生14名は、最初、咸臨丸で品川沖を出港し たが、当時関東地方に流行していた麻疹に榎本を含め4名がかかり、伊豆下田に 停泊し、治療し全快するまで待って8月2日に出港し、長崎に8月23日到着した。 この長崎で伊東と林が加わり、計15名がオランダ商船・カリップス号(約200ト ン)で長崎を出港した。しかし、この船はインド・バタビア港までの船で、バタ ビアから別の船に乗り換える必要があった。 カリップス号は途中まで順調に航海したが、ジャワでは暴風雨にみまわれ暗礁に 乗り上げてしまった。船はその後、船底に穴があき、難破してしまい、波が静ま ると、船長や水夫はボートで逃げてしまった。このあと、榎本他14名の日本人は 海賊船にあったり、無人島に上陸したりで、悪戦苦闘した。この模様は榎本が日 誌に書いており、まるで冒険物語を地で行くようであった。(後に詳細を別途紹 介したいと思います。) 1863年6月4日:ともかく榎本等一行15名は品川沖を出発してから計1年掛かって オランダに到着した。 3.幕府大動乱時代と勝海舟の台頭  榎本等留学生一行が62年6月に日本を発って以降、日本は本格的動乱が始まっ た。 この難局にあったのが、勝である。一方、海外で学問に専念していたのが榎本で ある。 これが、二人が同じ幕府海軍の出身ながら後年、立場を異にする原因となった。 1862年:8月:生麦事件発生。外国人殺傷の国際事件として、これより幕府権威 失墜事件の第一歩となる。 幕府、幕政改革を行い、国土防衛上、幕内の有能な人士を抜擢する。この一人と して勝・軍艦奉行並となる。幕府御前会議における海軍の議事について発言する。 ①軍艦の整備を後にしても有能な人物を得ることが先とした。:軍艦は数隻でも、 学術や人物の優れた者が英夷を圧することができれば真の国防ができるとした。 ②国防には挙国一致で当たることが大切で、基本的には開国論者であった。 10月:三条実美、姉小路公知等江戸へ下降し、攘夷決行を催促し親兵設置の詔勅 を渡す。 12月:将軍の上洛が決まり、勝は前衛として順動丸に乗り大阪へ行き、警備に奔 走する。 この頃、将軍上洛を期して、京都攘夷派が騒然とし、一方、神奈川では、英国海 軍が集結しデモを行っていた。 坂本竜馬は勝と面談し、最初切るつもりであったが、逆に説得され、門下生とな った。 このように、勝は朝・幕両方から最も重要視される人物となった。 1863年:将軍・家茂上洛し、「征夷大将軍の委任と攘夷決行に努力せよ」と直接、 詔勅を受けた。幕府側、朝廷に攘夷決行を誓約したが動けず。攘夷決行と英、仏 代表の要求との間で苦境に陥った。      以上(今回はこれまで。) 当方の二人の評価とコメント:  これまで述べた時代に生き、行動した二人の評価を述べたい。 先ず、この時代背景を振り返る。:榎本がオランダに出発した1860年以降は幕府 の激動期であった。特に、国内では尊王攘夷派が活動を活発化していた。薩摩藩 による生麦事件、高杉等の長州藩による英国公使館焼き打ち事件等が代表的であ る。 また、この活動の一環などから来る事件処理として、英、仏からの賠償要求や開 港や開国の要求に幕府は翻弄される。また、朝廷からは攘夷決行を迫られ、外国 からは開国を迫られ板挟みとなって幕府(幕閣)は動きが取れなくなって来る。 そこで、将軍や幕府上層部は幕内改革を行い人材登用により、勝を登用する。 (1)これより勝の評価: 彼は「日本としてどのようにあるべきか」を考えた、ただ一人の人間であった。 これは、かれが最初に咸臨丸で渡米し、わずか2カ月ではあったが、それまで長 崎伝習所で訓練を受けた知識と合わせ西欧の技術および文化を吸収し、特に軍備 および産業技術を外国から取り入れる必要を感じたにちがいない。このため、開 国を志向し、また、外国からの侵略に対しては国内一致することが重要と考えて いた。そして幕内では、幕府のことしか考えない幕閣に愛想を尽かしていた。即 ち、「幕府だけでは日本を守る力はない」と判断していた。挙国一致のためには、 極端には「一度攘夷決行を行って敗れ、外国の力を知れば、開国しかないことを 悟る」であろうとした。即ち、これにより諸藩が目覚め、結果として開国に意見 が統一できれば良いと考えていた。 今考えればその通りであると思うが、当時、このような意見を言えば、暗殺され るが落ちであり、現に、幾度もその危険に曝されてきた。彼自身は身を捨ててい たので恐れはしなかった。実に大胆であった。 彼の様に、欧米文化を見聞した後、抜擢されて実際の政治に身を置き、活動して きたので、誤らず、日本の将来を見据えることができたことと思う。どんな場合 でも有為な人材を適所に配置し、現場を見せて活動させることが人材育成の上で も重要となる。 (2)榎本の評価 一方、この段階では、榎本は、自分が夢見た留学が許され勇躍オランダへ旅立っ ていった。 すなわち、この後、幕府の騒乱時期には海外にいて、この騒乱を直には体験して いない。このことが、帰国後直ちに巻き込まれた戊辰戦争で、歴史的間違いを犯 す結果となったと思う。ただし、先取りして言えば、明治維新以後のかれの活躍 を見るとオランダ留学で学んだ力がここで大いに発揮されたと言える。皮肉でも ある。 ついでに蛇足を付け加える。 昨年、日銀に勤めるKさんが当校へ今年春米国へ留学するため、TOEFLのスコア アップのため半年ほど学んだ。秋にご機嫌伺いを出したところ、彼から返事がき た。いわく「最近の金融危機は自分にとって、潜在一隅の勉強の機会であるので、 腰を据えて行きたい。」と言っていた。勝および榎本の様を見ると、日本の将来 のため、ぜひどちらもうまくやって欲しいと願わざるを得ない。