2009/07/16

(その7):戊辰戦争前夜(続)(鳥羽・伏見の戦い~江戸城明け渡交渉・軍艦引渡しまで)

1.鳥羽・伏見の戦い

1867年12月:江戸薩摩藩邸焼き討ちと羽田沖海戦:

慶喜が大阪滞在中、江戸では、薩摩の撹乱戦術で強盗や放火等の犯罪が発生し、
ついには江戸城二の丸が焼けた。徳川の兵が憤激し、薩摩、土佐藩邸を包囲し、
焼き討ちした。薩摩藩兵は軍艦翔鳳丸に乗って逃げようとしたが、これを知った
幕府海軍は回天丸を出動したが最終的には逃げられた。

この焼き討ち事件は12月28日には京阪地方に伝わり人心を騒がせ、これまで
我慢していた幕府側の幕臣や旗本は武器を持って立ち上がった。即ち、大阪城の
幕府側は主戦論の勢いが強くなった。

1868年1月:一方、朝廷側はこれを見て薩摩、長州、土佐、芸州の各藩に命じ、
鳥羽・伏見の警備を強めた。これにより、幕府側と交戦状態に入った。同時に、
海では兵庫沖で海戦が始まった。幕府海軍は榎本が開陽丸の船将として指揮し
ていた。

結果として、陸軍では幕府は完敗し、大阪城に逃げ込んだ。一方海軍は戦勝し、
榎本は大阪城に入った。



2.徳川を朝敵とし、東征軍の派遣

朝廷は大久保や西郷の強請により、徳川家を朝敵とすることとした。

1月4日~10日:朝廷側は仁和寺宮を征討大将軍に任じて、征討の趣旨と徳川家
領地を御領とする旨布告した。

1月6日:慶喜は「陸軍の敗戦と朝敵の指名を受けた」ことを、幕閣等を前にした
会議で述べたが、幕内は主戦論者が多く、この空気に押され「江戸に帰って、
再起を期す」とした。しかし、本音は「江戸って恭順すること」であった。これ
以上の衝突を避けるため大阪を、闇の中、榎本が留守の開陽丸に乗り込み逃げ出
した。 また、幕府側諸兵を大阪より退かせる事とした。

1月9日:有栖川総督官を東征大総督として西郷を参謀として、東へ進軍すること
とした。

3.徳川側の動き

1月11日:慶喜は江戸に逃げ帰り、直ぐに静観院宮と天章院を通じて、京の公家に
「隠居して恭順、謹慎し徳川の家名の永続」を懇願する嘆願書を提出した。

しかし、江戸では主戦論が強く、徳川恩顧を数百年受けた彼らは、官軍と言って
も所詮は薩摩であり、これと戦うことに身命を投げ打つことを良しとしていた。

主戦論者:陸軍奉行並・小栗上野介、歩兵奉行・大鳥圭介、海軍・榎本武揚

この時、榎本は軍艦で大阪を突くことを主張した。

旧幕臣は主戦論で反撃の態度を示すもの多く、浅草本願寺に彰義隊が結成され、
その後、数を増していった。また、隊は江戸市内の警備に当たり人気を得、一大
勢力を形成した。

一部で政府軍と衝突することもあった。



4.この時の慶喜および勝の考えと行動:

(1) 慶喜はひたすら恭順の意を表した。また、自分の不明のため戦禍が起これ
ば、中国やインドの轍を踏むこととなり、日本国として瓦解することとなる
ので、旗本等は各地に戻り、朝令を遵法し、士民の安堵を計るよう説得した。
(これは勝の意見でもあった。)

(2) 慶喜は多くの主戦論幕閣の中で孤立しており、同じ意見を持つ勝を必要と
し、重く用いざるを得なかった。

(3) 幕内改革:老中、若年寄が分担した役職(会計総裁)を止め、幕府新体制
(3名の若年寄)とした。

 ・陸軍総裁:勝安房、 副総裁:藤沢次謙 

 ・海軍総裁:矢田堀鴻 副総裁:榎本武揚 

 ・外国事務総裁:山口直毅 副総裁:成島弘

 ・会計総裁:大久保一翁

以上の通りで、問題は主戦論者の榎本を勝が起用した。この理由は下記の通り。

・榎本の手腕・技術者として彼を買っていた。

・榎本を「有能であるが危険な人物」とし、野放しに出来ないとしていた。

  このため、彼を入閣させ、閣議で決定した政策に対し、榎本にも一半の責任を
負わせ、拘束することであった。しかし、実際上、勝が榎本を金縛りにはでき
なかった。幕府の海軍力は強く、また、軍艦は海上に浮かんでいるのでコント
ロールが効き難いため彼を陸に置くことであった。



(4) 外国勢力介入の防止

 慶喜と勝は、前述の通り、「当時の日本の状況が内乱となり、外国の助けを
求めることで中国やインドの二の舞になる」ことを心配した。それ(内乱)を
防止するため下記の行動をおこした。

1) 慶喜は「朝廷に恭順し、蟄居するので、徳川家が取り潰しとならぬよう」
嘆願書を提出することとした。

2) その使いには勝を使うこととした。

3) 勝はこの目的のためには死をいとわなかった。また、死を覚悟して敵陣へ乗
り込んだ。

4) 一方、フランスは(特にロッシュ公使や書記官は登城して謁見を求め、)
再挙を薦めた。軍艦、武器、軍資金を全てフランスから供給することを申
し出た。
これに対し、慶喜は拒否した。また、皇室に対し二心がないことを強調した。

また、フランスの教官が勝を訪ね、戦争への決意を求めたことに対し、勝は
公使館へ出向き、国情を説明し、教官の厚意を謝すと共に、彼を教官の職を
解くことを説得した。


当方のコメント:

(1) 尊王攘夷派の薩摩が薩英戦争および長州が四国戦争等外国と戦い、これを通し
て敵の力を目の当たりに知り、その後、彼等は、自ら軍備を改革していった。
坂本竜馬、勝等の意見で、「日本国として政府を作るには、自分たちが主導
権を持ち、改革する必要がある」と考えた。即ち、公武合体論でなく、(こ
れでは、徳川支配を排除できないと考えた。)ついに倒幕に向けて進むこと
となった。西郷としてはゲリラ作戦を行ったりで、結構過激な手を打ってい
たと言える。

(2) 一方、幕府は徐々に軍艦を作ったり、留学生や使節を外国に送ったりまた、フ
ランスから軍事顧問を呼び軍事改革を行ってはいたが、薩長に比べ改革が未
だ十分でなく、鳥羽・伏見の戦いに敗れた。即ち、主原因は武器や装備の違
いであった。

ただし、海軍は軍艦の数や大きさで幕府が圧倒的で強さを誇っていた。この
自信が榎本を主戦派にしていた大きな原因ともなった。

(3) 榎本の主戦論たる所以は、彼が指揮する海軍は圧倒的に強かったこと、論理的
には、薩摩の戦略に乗ってしまったこと。即ち、どちらが正義かと言えば、
幕府である。

これが主戦論の言い分である。

しかし、鳥羽伏見の戦いで敗れた以上、多少理不尽であっても朝廷側の決定
に従わざるを得ない。主戦論者には、「内乱が起こることは外国勢力の侵攻
を進めることとなる。」と言う意識はない。これが問題と言える。

(4) 省みれば、幕府側の軍事改革の遅れは、1839年(高野長英は蛮社の獄で捕ら
えられ、獄死した。)に始ったと言える。当時高野長英はシーボルトの弟子
となり「日本の捕鯨」と題する学位論文を書き、また、これを通じ軍事戦
略に最も精通していた。幕府はその彼を失い、高野を最も評価し海外事情や
外交に通じた堀も1860年:上司である老中・安藤と外交政策で意見が合わ
ず、政策論争に終止符を打つため自害した。従って、外国の状況に最も詳し
くまた戦略を持つ人物を失い、改革が遅れてしまったと言える。