2009/03/26

榎本武揚の生涯と時代(その3)

2.幕府大動乱時代と勝海舟の活躍
  1862年将軍家茂は慶喜を伴ない上洛し、朝廷との会議で、本心とは別に攘夷
決行を約束せざるを得なかった。その期限を1863年5月10日とした。慶喜は江戸
へ帰郷後直ちに、辞表をだした。(無責任であるが・・。)
(1)下関戦争
1863年5月10日:家茂、慶喜が朝廷に約束した攘夷実行は、各藩は無視していた
が、長州のみ攘夷実行を行った。即ち、この日、下関海峡で米商船を砲撃した。
また、23日にはフランス砲艦を、27日にはオランダ軍艦を砲撃した。外国船はそ
れぞれ驚きと準備不足で被害を避けるためその場を逃げ去った。これは長州尊攘
派を喜ばせた。しかし、その後、6月:米、仏、英および蘭の4カ国連合はこれに
対抗するため、下関を砲撃し、長州の砲台や軍船を破壊した。この時、長州藩の
武士軍団は散々に逃げ回った。一方、高杉はこのままでは外国と戦えないと判断
し、町人、農民、漁師を含めた奇兵隊を組織し、伊藤がこれに応じ加わった。奇
兵隊は士気が上がり、すぐに、砲台を修復して海峡の通行を遮断した。
6月19日:このため、連合国代表は、幕府に20日間の期限付きで「内海通行の自
由、条約における既得権の擁護、長州藩の処罰」を要求した。幕府のこれに対す
る回答は、「攻撃は朝廷の命令であって将軍はこれに反対できない、従って、幕
府は長州藩を処罰できない」と回答した。
この後、幕府が以上の状況であるため、連合国側は「幕府が雄藩を統御できない
こと、および、外交問題は朝廷と交渉する必要性」を認識した。

(2)蛤御門の変と連合軍の下関砲撃および和睦交渉
1863年6月:一方、京都では、新撰組が倒幕運動を行っていた長州藩士を寺田屋
に襲い、暗殺した(寺田屋事件)。この報に接した長州藩は倒幕勢力の回復を図
り、久坂玄瑞らは京都に藩兵を率いて上京し、「7卿、毛利父子の免罪」「松平
容保の懲罰」を朝廷に上表した。しかし、受け入れられなかった。
7月19日:蛤ご門や伏見で、久坂等は、薩摩、会津、桑名の朝廷守備兵と戦って
敗れた。これにより、長州は朝敵となり、幕府へ追討令が下りた。
8月5日:4カ国連合は18隻の艦隊を連れて長州藩の下関を砲撃した。長州は幕
府軍との戦いもあるため、連合国との交戦を避け、艦隊の威力に屈した。しかし、
奇兵隊は幕府軍を破った。
その後、英国は長州に「彦島の100年租借(植民地化)および賠償金$300万」を
要求した。長州は「外国船の海峡通過の自由」「戦費の支払い」「石炭、食糧の
供給」などを条件に和睦した。この時、長州を代表して、高杉が英国から帰国し
たばかりの伊藤、井上と共に、講和交渉を行った。高杉は英語が話せないが、「
日本は神代の昔から日本の歴史」を延々述べたて相手を煙に巻き「彦島の租借」
を断固拒否した。この時以降、英国は頼りない幕府よりむしろ長州に好感を持っ
た。また、長州も外国の兵器の威力を知り、開国へ方針転換を行こととなった。

(3)薩英戦争
1862年6月:英国は、生麦事件の後処理として、幕府を通じて薩摩との交渉は無
理と判断し、直接薩摩に乗り込み、交渉を進めることを決め、6月に英艦隊は鹿
児島に到着し、「犯人の処刑、賠償金の支払い」を要求したが、受け入れられず、
英艦隊は砲台や市街を砲撃した。これに対し、薩摩も応戦し、頑強に抵抗し、英
艦隊に死傷者を出し、また艦隊にも被害がでた。このため英艦隊は退却した。こ
の戦争の結果、薩摩内に、また英国側にも、戦うことの無意味さを悟り、和平と
なった。英国の要求は「賠償」であった。これに対し、薩摩は「賠償金の支払い
に応じるが、これは将来英国から軍艦購入に当てるもの」とした。

当方のコメント
(1)慶喜のメンタル面での問題
1862年5月家茂と上京し、朝廷から攘夷実行を迫られ、やむなく合意し、5月10日
をその日としながら、帰郷するや、辞表を出して、役を降りる挙に出た。同じよ
うなことを将軍となってからも行っていた。勝に糾弾されたが、性格的な問題で
あろうか?彼は後に、将軍蟄居し、江戸の戦火を防いだとして名君と謳われてい
るが、リーダーとして決して優れた人物とは言えない。「君子豹変」、「君子危
うきに近か寄らず」の例えがぴったりである。

(2)高杉晋作の態度とコミュニケーション能力
かれは長州内でも過激派として知られ、問題を起し兼ねないとして桂小五郎が彼
を1862年6月から2か月間、貿易視察として上海に送った。この時、高杉は「中国
が植民地になること」「太平天国の乱」を直接見聞し、危機感をもった。即ち、
尊王攘夷思想を持つこととなった。
しかし、後に、長州藩主の下命により4カ国との和睦交渉で見せた態度と知恵は
驚くべきものがある。体を張ってこれに臨んだに違いなく、この態度に外国人も
感服したとされる。
長州の植民地化を体を張って防いだといえる。コミュニケーション能力とは単に、
言葉だけではなく、ボディ・ランゲージが物を言うことを証明して見せた。また、
慶喜とは雲泥の差である。
また、当方が30代以降、客先や強者との交渉に当たるときいつも、思い出された
のがこの高杉の言動であり、勇気付けられたことであった。
榎本武揚の生涯と時代(その3)

1.はじめに
今年初めから、榎本武揚について下記の観点から調査し、まとめたものを毎月、
本メルマガに掲載して行く予定です。将来、英文に翻訳し、外国人に彼を紹介し
て、"知られざる国際的日本人"として彼らの日本人観を一変させたいと思ってい
ます。
取りあえず、徐々にまとめ、メルマガにて出力していきたいと思いますので、ご
興味ある方は最後までお付き合い願えれば幸いです。
(目的)
明治時代にありながら、かつ日本人でありながら、日本人にないスケールの大き
な国際人としてまた、21世紀に生きていても不思議でない位の存在感と活躍ぶ
りを紹介したい
と思っています。また、国際人を育てるには帰国子女や学童をどのように教育す
べきかを検討する材料としたいと思っています。

2.幕府大動乱時代と勝海舟の活躍
  1862年将軍家茂は慶喜を伴ない上洛し、朝廷との会議で、本心とは別に攘夷
決行を約束せざるを得なかった。その期限を1863年5月10日とした。慶喜は江戸
へ帰郷後直ちに、辞表をだした。(無責任であるが・・。)
(1)下関戦争
1863年5月10日:家茂、慶喜が朝廷に約束した攘夷実行は、各藩は無視していた
が、長州のみ攘夷実行を行った。即ち、この日、下関海峡で米商船を砲撃した。
また、23日にはフランス砲艦を、27日にはオランダ軍艦を砲撃した。外国船はそ
れぞれ驚きと準備不足で被害を避けるためその場を逃げ去った。これは長州尊攘
派を喜ばせた。しかし、その後、6月:米、仏、英および蘭の4カ国連合はこれに
対抗するため、下関を砲撃し、長州の砲台や軍船を破壊した。この時、長州藩の
武士軍団は散々に逃げ回った。一方、高杉はこのままでは外国と戦えないと判断
し、町人、農民、漁師を含めた奇兵隊を組織し、伊藤がこれに応じ加わった。奇
兵隊は士気が上がり、すぐに、砲台を修復して海峡の通行を遮断した。
6月19日:このため、連合国代表は、幕府に20日間の期限付きで「内海通行の自
由、条約における既得権の擁護、長州藩の処罰」を要求した。幕府のこれに対す
る回答は、「攻撃は朝廷の命令であって将軍はこれに反対できない、従って、幕
府は長州藩を処罰できない」と回答した。
この後、幕府が以上の状況であるため、連合国側は「幕府が雄藩を統御できない
こと、および、外交問題は朝廷と交渉する必要性」を認識した。

(2)蛤御門の変と連合軍の下関砲撃および和睦交渉
1863年6月:一方、京都では、新撰組が倒幕運動を行っていた長州藩士を寺田屋
に襲い、暗殺した(寺田屋事件)。この報に接した長州藩は倒幕勢力の回復を図
り、久坂玄瑞らは京都に藩兵を率いて上京し、「7卿、毛利父子の免罪」「松平
容保の懲罰」を朝廷に上表した。しかし、受け入れられなかった。
7月19日:蛤ご門や伏見で、久坂等は、薩摩、会津、桑名の朝廷守備兵と戦って
敗れた。これにより、長州は朝敵となり、幕府へ追討令が下りた。
8月5日:4カ国連合は18隻の艦隊を連れて長州藩の下関を砲撃した。長州は幕
府軍との戦いもあるため、連合国との交戦を避け、艦隊の威力に屈した。しかし、
奇兵隊は幕府軍を破った。
その後、英国は長州に「彦島の100年租借(植民地化)および賠償金$300万」を
要求した。長州は「外国船の海峡通過の自由」「戦費の支払い」「石炭、食糧の
供給」などを条件に和睦した。この時、長州を代表して、高杉が英国から帰国し
たばかりの伊藤、井上と共に、講和交渉を行った。高杉は英語が話せないが、「
日本は神代の昔から日本の歴史」を延々述べたて相手を煙に巻き「彦島の租借」
を断固拒否した。この時以降、英国は頼りない幕府よりむしろ長州に好感を持っ
た。また、長州も外国の兵器の威力を知り、開国へ方針転換を行こととなった。

(3)薩英戦争
1862年6月:英国は、生麦事件の後処理として、幕府を通じて薩摩との交渉は無
理と判断し、直接薩摩に乗り込み、交渉を進めることを決め、6月に英艦隊は鹿
児島に到着し、「犯人の処刑、賠償金の支払い」を要求したが、受け入れられず、
英艦隊は砲台や市街を砲撃した。これに対し、薩摩も応戦し、頑強に抵抗し、英
艦隊に死傷者を出し、また艦隊にも被害がでた。このため英艦隊は退却した。こ
の戦争の結果、薩摩内に、また英国側にも、戦うことの無意味さを悟り、和平と
なった。英国の要求は「賠償」であった。これに対し、薩摩は「賠償金の支払い
に応じるが、これは将来英国から軍艦購入に当てるもの」とした。

当方のコメント
(1)慶喜のメンタル面での問題
1862年5月家茂と上京し、朝廷から攘夷実行を迫られ、やむなく合意し、5月10日
をその日としながら、帰郷するや、辞表を出して、役を降りる挙に出た。同じよ
うなことを将軍となってからも行っていた。勝に糾弾されたが、性格的な問題で
あろうか?彼は後に、将軍蟄居し、江戸の戦火を防いだとして名君と謳われてい
るが、リーダーとして決して優れた人物とは言えない。「君子豹変」、「君子危
うきに近か寄らず」の例えがぴったりである。

(2)高杉晋作の態度とコミュニケーション能力
かれは長州内でも過激派として知られ、問題を起し兼ねないとして桂小五郎が彼
を1862年6月から2か月間、貿易視察として上海に送った。この時、高杉は「中国
が植民地になること」「太平天国の乱」を直接見聞し、危機感をもった。即ち、
尊王攘夷思想を持つこととなった。
しかし、後に、長州藩主の下命により4カ国との和睦交渉で見せた態度と知恵は
驚くべきものがある。体を張ってこれに臨んだに違いなく、この態度に外国人も
感服したとされる。
長州の植民地化を体を張って防いだといえる。コミュニケーション能力とは単に、
言葉だけではなく、ボディ・ランゲージが物を言うことを証明して見せた。また、
慶喜とは雲泥の差である。
また、当方が30代以降、客先や強者との交渉に当たるときいつも、思い出された
のがこの高杉の言動であり、勇気付けられたことであった。