2010/02/07

箱館戦争(中期)

1. 政府軍の攻撃準備状況と榎本側の政府軍攻撃への対策
(1)政府軍は青森に軍隊を益々増強し、集結させ、榎本軍の来襲に備えた。
(2)新政府は東京で米国から甲鉄艦の入手、列強とは局外中立解除を交渉し
   続けた。
 1868年12月28日:この解除に成功した。ただし、この解除は北海道には及ばな
 いとした。即ち、北海道での局外中立は保たれた。
(3)1869年1月中旬:榎本が英仏艦長に託した嘆願書が却って、朝廷を侮辱
 するものとして却下されたことを榎本等は知った。これを受けて、政府軍の攻
 撃を迎え撃つ以外に方策なしと覚悟を決めた。
 これ以降、箱館の病院に入院していた政府軍の傷病兵や松前藩降伏兵の内、内
 地に帰ることを希望する者数百名を船で送還した。榎本は戦時国際法の則り、
 公正に処置した。当時は未だ、捕虜に対して残虐な風習であったが、榎本は国
 際法に通じていたため、公正に扱った。なお、政府軍参謀・黒田清隆は榎本の
 この様な行為を見て、彼の人物を見抜いていた。
(4)甲鉄艦が戦闘に加わることを知った榎本はこれに対抗するため、甲鉄艦の
 装甲を打ち抜くため、56斤砲の弾丸の先端に尖った甲鉄を鋳造し、これを回
 天丸の砲に据え、試射に成功した。榎本の考えでは、甲鉄艦を200ヤードの
 距離まで近づけて砲撃すれば命中し損害を与えられるとした。

2. 政府軍側の対応
(1)2月3日:米国と甲鉄艦の譲受について交渉を重ね、ついに、買い上げが決
 定した。
(2)2月23日:青森の陸軍を応援するため、増田明道を参謀として、甲鉄、陽
 春、春日、他、計8隻を進発することとした。
  3月9日:品川沖を8隻は出航した。

         (その11)宮古湾海戦

政府軍は前述の通り甲鉄艦と合わせて8隻の軍艦を北海道に向かわせた。途中、
宮古湾へ立ち寄った。
1.3月18日:政府軍海軍は南部藩の宮古湾に到着した。これを榎本は間諜を通
 じて「政府軍軍艦8隻が品川を出航し、17,18日に宮古港に入港する」ことを
 知った。
2.榎本等幹部は会議し、回天艦長・甲賀の強硬な主張に従って「甲鉄艦奪取」
を決定した。これは榎本も同意見であった。要領は回天、幡竜、高尾の3艦で襲
撃する事とし、荒井郁之助を提督、甲賀を回天艦長、土方を陸軍都督として陸兵
隊も乗り組ませた。
3.戦略:
(1)宮古湾侵入の際は各艦外国旗を掲げ敵艦を安心させ、発砲の直前、旭日旗
 に改めることとした。
(2)入港と同時に、幡竜と高尾は甲鉄艦の左右舷に横付けし、味方の兵は全て
 合言葉や鉢巻をし、同士討ちを避けて、不意打ちをかけて攻めることとした。
 回天は他艦を攻撃して、甲鉄艦を救われないようにする。
(3)フランス教官・二コール、アボルダーシ等に接舷攻撃の訓練をさせ、同時
 に、彼等を幡竜、高尾へ乗船させた。
4.乗っ取りの実行:
(1)3月20日:夜12時、3艦は箱館を出航し、宮古に向かった。また、船上では
 ニコール等によって兵に艦内攻撃の訓練を行った。
(2)3月21、22日:天候良好であったが、23日波風高くなった。
 3月24日:風収まり、回天と高尾は米国旗、ロシア旗を掲げて南部大津港に入
 った。
 ただし、幡竜は未だ入港せず、従って、作戦を変更した。高尾が甲鉄艦を襲い、
 回天が他艦を攻撃するとした。
 同日:両艦出航するも、高尾丸が途中、機関に故障を起こし、航速遅くて遅れ
 た。
(3)3月25日:回天のみ宮古港に到着したが、高尾丸の到着を待つが夜が明け
 てしまい、発見を恐れ、回天丸のみで甲鉄艦を襲うこととした。将に、1艦で
 8隻に当たることなる。(気概は良いが、無理であろう)
 「榎本武揚」の著者・加茂によれば「榎本軍の 勇猛果断振りはトラファルガ
 ー海戦におけるネルソンとその海兵に比すべきも のとして、世界の海戦史上
 にその名を止めた」と言う。

  回天丸は1隻で8艦相手に良く攻めたが、結果は甲鉄艦を奪取できず、指揮を
 していた甲賀はこめかみを打ち抜かれ戦死した。この戦闘で乗っ取はあきらめ
 て、回天は無事脱出できた。この間約30分であった。また、甲鉄艦への砲撃で
 は弾丸が甲板を撃ち抜けず、弾ははじかれたと言う。
 また、高尾丸は宮古に向かいつつ漂流していた。このため、政府軍艦に発見さ
 れ、追いかけられ、南部・田ノ浦の海岸に乗りつけたが、砲撃され自焼し、沈
 没した。乗組員は捕虜となった。
 
当方のコメント:
(1)宮古湾作戦は、結果論であるが、無謀と言わざる得ない。特に、作戦は3
 艦で行うところ、実際は、たった1隻で行った。結果は攻撃したと言うだけで、
 戦果はなく、むしろ2艦を失う結果となっている。物語りとしては胸躍り、楽
 しいが作戦としては無謀で、これを承知で行うのが、榎本流とも言えるが、褒
 めるわけにはいかない。
 思いつきや感情論に押し流される傾向がある。クリティカルシンキングが足り
 ない。
 この点では典型的な日本人である。勝には勝てない。

(2)しかし、強いて言えば、もし3艦がそろって攻撃できていれば乗っ取り
 は作戦通り、出来たかもしれないが、実際は勝利できなかった。この理由は敵
 にあるのではなく、艦の操船や嵐に見舞われる等のアクシデントにあるが、機
 関の故障も影響している。この様に操船する能力やメンテおよび操船訓練が不
 足していると言える。時間との戦いでもあるが、むしろじっくりこの方の訓練
 に時間をかけるべきと考える。

(3)もう一つ言えることはお互いの連絡手段がなかったことである。榎本はオ
 ランダ留学時、無線機を2台購入しており、開陽丸に搭載していたと言う、し
 かし、開陽丸に積んでいて、1隻にしかなかったので実際には使われなかった。
 また、開陽は沈没してしまい。同時に、この電信機も失われた。これが有効に
 使われていたら、見方の艦がどのような状況であったか分かり、別な作戦を取
 ったかもしれない。時代がこの様であったと言うしかないが榎本にとって無念
 であったと言える。

(4)この他、戦いぶりとして、宮古湾内に入る時、軍艦に列国の旗を掲げ、
(これは敵を欺くため当然であるが、)戦闘直前に(国際法に則って)"章日旗"
 に換えるなどは、榎本の外国で得た知識と律儀な性格を物語っていて面白い。

(5)今日、タリバン等のテロリストなど米国の戦闘が続いているが、前記の榎
 本のようであればテロリストとは呼べなくなる。また、太平洋戦争で日本側の
 戦闘開始宣言が遅れたため、卑怯呼ばわりされた。この意味ではこのよう行動
 は現代では極めて重要なことと思い知らされる。

(6)日本人の考えの中に伝統的に"判官びいき"があり、あだ討ちと言う名の下
 にリベンジをすることを"良し"または"義"とする傾向がある。具体的には「忠
 臣蔵」の例があり、歌舞伎にも取り上げられ、大石内蔵助以下47士は半ば英
 雄扱いである。しかし西洋ではこれは容認されず、"卑怯"となる。グローバル
 社会で生きる現代日本人はこれを心に刻む必要がある。考えてみれば、北朝鮮
 の行為を我々は認めないにと同様であると思います。この点で、榎本の行為に
 学ぶべきであると考えます。