明治維新となって、新内閣制度ができる1885年までの間、榎本は新政府(薩長
政府)の下で、政治基盤を整える役職に任ぜられ、以下のような基盤作りを担う
こととなった。
1874年:海軍中将となる
1879年:地学会設立、副会長となる。
1880年:海軍卿となる
1882年:皇居造営事務副総裁
同年:駐清特命全権公使となる。
大きな役割は別項として述べる。
1.海軍卿となり、日本海令の草案作成
1880年:明治初年以降、海令の他も同じく、法律が整っていなかった。
特に海運は非常に幼稚で、無きに等しかった。このため、榎本が海軍卿時代、榎
本の知識を必要とされ、日本海令の草案を上呈した。
ただし、当時、かれの持つ海軍中将の肩書きはロシア全権公使として必要な肩書
きであり、彼は日本海軍の建設には極力避け、1年2ヶ月で辞した。
2. 皇居造営事務副総裁
1883年:近代的皇居の造営が計画の議題となり、その計画に当たり、ロシアの宮
殿を良く知っている榎本が皇居造営御用掛・副総裁に選ばれた。ただし、当時薩
長政府下では例え、有能な人物であっても、最高の地位に就くことは出来なかっ
た。即ち、政府は最も必要とする場合のみ最高の責任ある地位に就かせ、その後、
解任することを常とした。(常にピンチヒッターの役割)
榎本は自ら藩閥政治の中に入ってまでそれをしようとはしなかった。即ち自分の
経歴を意識していた。ただし、黒田の後ろ盾で各種重要ポストに就くこととなっ
た。
1883年9月:皇居造営事務副総裁を免じられた。清国駐在・特命全権公使として
家族を連れ中国に駐在となった。
3.気象学会と気象台設立
1878年代:内務省地理局の下、荒井郁介等を中心に日本人学者や技術者の手によ
り、気象観測事業を開始する。
1879年:地学協会設立、榎本は副会長に任ぜられる。
1883年:東京気象学会が成立す。荒井が主に動き、会誌「気象集誌」が発刊され
た。
1888年:中央気象台が開始された。
1889年:大日本気象学会として新発足する。
会長:山田(元政府軍陸海軍参謀、箱館戦争で榎本と戦った。)
1893年:山田死去し、榎本が会長を引き継ぐ。
1896年:気象台は文部省に移管された。荒井が中央気象台、初代台長となる。
15.5 外務省(外務大臣補佐)と在シナ時代
1.外務大臣補佐として
1880年:寺嶋外務卿の下で、不平等条約改正に事業に当たる。
1882年:榎本駐清特命全権公使に任ぜられる。
皇居造営事務副総裁にも任ぜられる。
1884年:朝鮮半島情勢:甲申事変
朝鮮は当時、独立党(日本が支援する)と事大党(閔氏の一派で、中国が
支援する)とが争い、次第に激しさを増していった。
12月:独立党の一派がクーデターを起し、王宮を占拠した。閔氏はこれを逃れ、
袁世凱(中国)に頼った。
日本人40名虐殺され、閔氏一族の政権を樹立する。(甲申事変と言う)
日本政府・外務卿・井上を特派全権大使として軍隊と伴に京城に派遣した。
清国も同時に、呉を隊長に陸海兵を付けて京城に送った。
1885年1月:井上と呉が談判し、清国は日本へ弔慰金と公使館修繕代を支払うこ
とで合意し、調印した。
1)天津条約締結
中国は北洋大臣・李鴻章、日本代表は伊藤博文であった。榎本は裏方として
李鴻章と打ち合わせし、解決を助けた。
初めは双方共、強気で妥協せず、伊藤は条件に合わなければ引き上げ、戦争
も辞さない覚悟であった。榎本はこれを相手にも伝え、説得を重ねた。
最終的に下記3条件の決着をみた。この影には榎本と李鴻章との信頼関係
が働いてのことであった。影の立役者と言える。また、榎本は伊藤の交渉力をた
いしたことはないと判断していた。当時、伊藤に限らず、相手が弱いとみると、
高飛車に出るのが役人の常であった。一方、榎本はこの様な態度は取らず、語学
が出来たこともあるが、話し合いで、信頼関係を築き(無論駆け引きもあるが)交
渉を進める態度であった。Win-Winの関係を築いた。
1885年4月:中国と日本とで下記内容の条約を締結した。
・朝鮮から日本軍及び中国軍を撤退させることとする。
・両軍は朝鮮に軍事教官を派遣しないこととする。
・出兵の必要があれば、事前に交渉し、事変後撤退する。
これ以降の彼の外務大臣としての役割は下記に続くが、活躍内容を15.7章「
条約改正」に記す。
1891年:松方内閣で、外務大臣に就任。松方内閣が総辞職し、外務大臣を辞任。
1892年:条約改正調査委員会委員長に就任。
著者コメント:
榎本は薩長の明治政府に要請されて次々に外務大臣をはじめ役職に就任し、自ら
持てる経験と知識を新政府やシステム作りに邁進した。当時、役人とりわけ大臣
は名誉職とされ、何もせず(できずと言った方がよいが・・・。)えばっている
のが常であったが、榎本は率先して事に当たった。中国との交渉も伊藤が表向き
の代表となっているが実質は李鴻章と友情を勝ち得、取りまとめた。かれのコミ
ュニケーション能力(中国語も話せた)が発揮されたわけである。かれの日記で
「伊藤は大したことはない」と言い切っている。「長州人何するものぞ!(こい
つらに負けたけれど!・・・。)」と思ったことであろう。両者の教育程度を比
較すれば差は歴然であり、榎本が伊藤をあまり評価しなかったのも当然であろう。
また、榎本は薩摩人を好んだが、長州人は好きでなかったようだ。特に山県とは
合わなかった。

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