2009/11/26

(その9):箱館戦争(前期)

I.江戸脱出:脱出はしたものの、早くも銚子沖で嵐に会い、損害を受けた。運が悪いと言える。寄せ集めのため、訓練が十分でなく操船も未熟であったのではないかと思われる。
1. 1868年8月19日:江戸脱出
潜伏させていた脱走旗本等は品川の海浜に集合した。一同は伝馬船で本船に送られた。
この内にはブリュネ等フランス軍人2名も乗船しており、総勢約2千名であった。

2.全艦8隻は出航し、その晩は館山沖に停泊した。ここで軍儀を開き、結論として箱館を占領し、そこを根拠地として政府軍に抵抗することで衆議一決した。

3.8月20日:江戸では品川沖から艦船8隻が突然いなくなったため、大騒ぎとなった。
 新政府としては後の祭りであった。この晩、勝宛に榎本から脱走の趣旨を述べた手紙が届いた。

4.8月23日:榎本艦隊は銚子沖で暴風雨に会い、各船離散し、また下記の様に損傷した。
・ 開陽丸:舵を失う、マストを折った。
・ 回天丸:マストを折る。
・ 美化保丸:銚子沖で座礁し、破損した。乗員は一部溺死し、また一部は上陸  し、捕らえられた。
・ 咸臨丸:回天に綱で曳航されていたが綱が切れ、下田へ流された。
・幡竜丸:咸臨丸が流されたため、救助すべく追いかけて、清水港に入港した。 後から続いて咸臨丸も入港した。

5.9月11日:それぞれ修繕後、出航した。
しかし、咸臨丸は政府軍艦・富士山、飛竜、武蔵丸の艦隊と戦闘となり、乗員の多くは戦死し、または捕らえたれた。船は没収された。なお、戦死者はそのまま放置されたため、清水の次郎長が密かに葬った。

II.東北列藩同盟の状況
 1868年9月8日政府は元号を明治と改めた。そして、9月20日明治天皇は京都を出発し、10月13日江戸へ入城した。また江戸を東京と改名した。

この時期、東北は以下のように、激烈な戦場であった。
・1868年9月4日:米沢藩降伏し、同盟は瓦解した。
・ 同年 9月27日:仙台藩降伏した。
・ 南部藩:恭順の意を表した。
・ 同年 9月22日:会津藩:孤城を守り続けたが、落城した。
・ 庄内藩は一人抵抗を続けていたが、落日の様相であった。榎本へ救援の依頼があり、これに応じるため、石巻に停泊中の千代田形丸と長崎丸を応援に出したが、政府軍の勢い強く、上陸できず、長崎丸は酒田沖で難破し、千代田形丸のみ11月11日箱館に帰還した。
9月27日:庄内藩降伏した。これで東北地方は完全に平定された。

III.榎本軍の北海道上陸
1. 旧幕の脱走部隊は戦況不利で失望し、仙台付近に集合しつつあった。また、仙台湾に榎本が率いる軍艦が到着し、下記の兵力が榎本の下に加わり、総勢約2500名となった。
・ 松平太郎:歩兵奉行
・ 竹中重固:陸軍奉行
・ 大鳥圭介、土方歳三:歩兵奉行並
・ 人見勝太郎、本多幸七郎:遊撃隊長
・ 古屋作左衛門:新撰組副長
・ 松平定敬:旧桑名藩主
・ 小笠原長行:旧唐津藩主
・ その他:フランス軍人:ブリューネ、マルティン他5名が参加した。
上記のように急膨張したため、歩兵の小銃を手当てする必要があり、外国船から物々交換で購入した。
さらに新規参入者と今後の方針を決定した。即ち、北海道へ行き、立てこもることとした。
 奥州は未だ、新政府が十分及ばない地域であり、徳川影響が強く残り、榎本が蝦夷地へ立てこもるとの話を聞き、住民は涙を湛えてこれを聞き、古老の話として「これを食事中に聞いて思わず、茶碗を落として泣いた」と語られた。

2.蝦夷地へ上陸
・1868年10月9日:総員は仙台沖停泊中の5隻と仙台藩に貸していた大江丸および 鳳凰丸の計7隻に分乗し、東名浜を出航した。
・同年 10月12日:さらに、仙台脱走兵隊長・星拘太郎と率いる兵200名が参加 した。
 そして、全員、全艦出帆した。
・同年10月13日:宮古湾へ入港し、薪や食料を積み込み、北海道へ向かった。
・当時北海道は明治政府治下にあり、弁天砲台は政府軍が守っていた。そこで、 榎本は戦闘を避けるため、箱館入港を止め、湾内の鷲の木に集結した。
・ここで、榎本は箱館府知事・清水侍従を経て朝廷に嘆願書を提出するため、人 見、本多等を上陸させて向かわせた。しかし、箱館府は使者を夜襲したため、 嘆願書は提出できなかった。
・10月21日:全軍、鷲の木に上陸した。上陸後、二手に分け、箱館へ向かった。
・10月23日:榎本軍、五稜郭および箱館を占領した。府知事・清水谷は藩兵と共 に外国船に乗って津軽に逃れた。
・10月26日:榎本等幹部は回天、幡竜に乗り、箱館へ入港した。直ちに、台場  を占領し、日章旗を掲げた。
・10月27日:秋田藩軍艦・高雄丸が榎本の動静を知らず、入港してきた。乗船  していた将兵を内地へ送り返し、軍艦は奪った。
・松前藩に使者を送って「今回の戦争の真意と戦争の不可避」を伝えたが返答  がなく、使者は斬殺された。
・10月28日:松前藩の非礼を怒った榎本達は松前への攻略を開始した。
 即ち、土方は兵700名を率いて松前に向かって出動し、知内村で交戦した。
    また、五稜郭、箱館も攻め、平定した。
・10月31日:榎本等は開陽丸の舵を修理し、鷲の木を出航し、翌11月1日箱館に 入港した。永井玄蕃を箱館奉行とした。
・松前藩との交戦:上記状況を耳にした清水谷府知事は青森にいる藩兵を箱館に 派遣した。
・1868年11月5日:土方軍、福山城に迫り、これを攻めた。
 政府軍、良く戦うも土方軍に敗れた。松前城陥落した。
・榎本側は弘前藩に徳川脱艦の布告書を手渡し、奥羽越列藩に救済方を託して直 ちに箱館へ引き返した。これは榎本一流の敵情偵察を兼ねた作戦行動であった。
・11月11日:土方軍、福山城占領後、松前藩兵を追って江差に向かった。
  榎本は開陽丸で江差に到着し、海兵を上陸させ、台場、倉庫を占領した。
・この夜、開陽丸は嵐を迎え、鎖が切れ、浅瀬に乗り上げた。
 10日後には、開陽丸は破壊した。榎本軍にとって最大の損失であった。
・松前藩主や藩兵は熊石にのがれた。榎本軍はこの熊石を攻めた。
 松前藩側は夜陰に乗じて、小船で津軽へ逃げ去った。藩兵500人は捕虜となっ た。
 榎本側は全軍五稜郭に引き上げた。これにより榎本軍は蝦夷地を平定したこと になった。

コメント:榎本等は慶喜が駿府に送られるのを見届けて、準備よろしく、江戸を脱出したが、折から台風のシーズンであり、銚子沖に出た途端、開陽丸、咸臨丸等軒並み被害を受けた。本隊の榎本等は蝦夷の鷲の木に上陸し、戦闘の後、箱館を占領したが、最大の戦力である開陽丸を嵐でなくし、今後に不安を残した。榎本としては、海軍力では自分達が実力は上であると自負していたが、開陽丸をなくした今となっては失望の極みであったに違いない。しかし司令官として、体勢を立て直し、戦闘に備えることとなる。この間にも、榎本は新政府や天皇に対し、間接的に(弘前に逃げた松前藩主を通じ)「北海道旧徳川勢力によって開発することを認める」よう願い出ていた。同時に、「認めてくれなければ戦闘やむなし」として和戦両様の構えでいた。しかし、松前藩主はこれを拒否し、使者(松前藩の捕虜、即ち松前藩主のかつての部下)を惨殺した。
この頑な態度は(嘗ての部下を惨殺することはないのでは)、当方には理解できない。蝦夷から追われたことの腹いせにしか見えない。無論、藩主が朝廷に届けたとしても朝廷がこれを許すことは考えにくいことではある。和睦は断たれ、これから先、冬の寒さと戦いへの準備が始まる。

2009/10/16

その9:軍艦引渡しから蝦夷への脱走まで

先月は戊辰戦争中心で、榎本は出てきませんでした。かれはオランダから帰
国後、直ぐに戊辰戦争に巻き込まれます。今月は榎本に集中して話を続けます。

1868年3月:西郷と勝との会談結果を受け、勝は西郷と誠意ある約束をした以上、
勝は身を挺してでも約束を守る必要があった。最も心配であったのは他ならぬ榎
本の動きであった。この理由は以下の通りである。
(1) 榎本は反恭順派で、主戦派の総帥であったこと。
(2) 軍艦は海に浮かんでいるため、把握できない。
   このため、勝は軍艦の動静を日夜探していた。
(3)榎本は軍艦の引渡しを拒否し、軍艦8隻を率いて品川沖を脱出し、館山沖
   に退去した。
(4)朝廷側から勝へ手紙で「軍艦引渡しの約束違反」として責められた。
(5)このため、勝は単身館山へ行き、開陽丸上で、榎本と面談し、軍艦を引き
 渡すよう説得した。榎本にとって勝は兄弟子に当たり、反対は出来なかった。

 一方、榎本等の反恭順派にとって、江戸開城と慶喜の水戸引退は最後の望みの
綱が絶れた。 榎本にとって、軍艦の引き渡しは自己の自尊心を傷つけ、かつ徳
川家を無力なものとするに等しいためである。また、彼の要求根拠としては「薩
長が海軍を持つことを許されていた。」ことであった。
 このように彼の考えは彼自身および徳川家から離れられなかった。本来は、政
府軍に敗れた者として許されることではない。武士道としては理解できても、は
なはだ日本人的発想と言える。
そこで、彼等は以下の様な動きをした。
4月9日:旧幕府側として陸軍・海軍人の嘆願書を出した。曰く「軍艦の一部は徳
川方に残して欲しい」理解を示し、旧幕府所有の軍艦の内、開陽、回天、幡竜、
千代田形丸の4隻を榎本へ返し、榎本の希望通りとした。またその際、西郷は榎
本を主家を思う至情とし褒めていた。これは政府軍としては、相手を慰撫し、懐
柔するためであった。これは政府として、なんら疑惑を持っていなかったと言え
る。そして後にこれが裏目に出たと言える。

榎本の脱走準備:
榎本は密かに以下のように脱走準備にかかった。
(1) 軍艦へ燃料、食料の積み込み
(2) 艦船の艤装整備
(3) 艦内人員の任免――恭順派や老人を退け、決死の壮者を選び、重要ポス
    トに就けた。
(4) 兵員には銃砲の取り扱いを訓練した。
(5) 武器、弾薬を松平太郎(後に,函館で副総裁となる。)調達させた。
 彼が御船蔵の管理者の時に貯蔵されたものを密かに各艦船に搬入させていた。
(6) 軍資金の調達については諸説ある。一説によると下記であったと言う。
 ・鳥羽・伏見の戦いで幕府が敗れ、大阪を後にした時、榎本は大阪城から古金
 ・約20万両を富士山丸に積み込んだ。この一部が流れた。
 ・松平太郎が銀座にあった100万両を隠していたが、この一部を回した。

フランス軍の参加:
1863年(慶応1年):幕府は軍隊の洋式化と反幕府勢力を抑えるため、ロッシュ
に陸軍教師を招請した。しかし、実現が遅れ慶応3年仕官5名、下士官9名が來日
し、同年5月:江戸で騎兵、砲兵、歩兵の訓練を開始した。
 
 榎本と勝の考え方と行動の比較:
 勝:
(1) 国内で政治混乱から請われて、政治的重要ポストに昇り、政治家として
幕末の大動乱を身を挺して(死を覚悟で)体験し、その結果として現在の考え
(日本の統一国家を確立することが第一)に立ったと言える。
(2) 大局的見地から身を処して行動するだけの見識があったと言える。
(3) その一つにかれはナポレオンのモスクワ攻めで敗戦した状況を理解して
  いた。この知識を西郷があくまで江戸を攻めることに拘る場合、「やるなら
 やってみろ」と、この戦略を用いようと準備していた。驚きであり、したたか
 である。
(4) 勝は榎本の力量と性格を見抜いていた。即ち、榎本を海軍副総裁として
 選んだのは閣内に置いて彼を拘束するためであった。

榎本:
(1)この大動乱期の大部分、日本を留守にしたため身を持ってそれを体験で 
 きなかった。従って、世の中の全体的な動きを把握できなかった。
(2)彼が帰国した時は(1867年)3月末には幕府は既に傾き、勢力を挽回で 
 きる状況ではなかった。
(3)帰国して直ぐに、徳川家強化のため意気込んで帰国した彼としては徳川 
 の衰退のみが頭に来ており、その原因や背景を深く考える余裕がなく、徳川衰
 退の原因は薩長の謀略としか考えなかった。勝以外の周囲はこの様な考え方で
 あったためでもある。即ち、外国文化を知っていたにも拘らず、クリティカル
 シンキングが出来ていない。表面的に(ストレートに)しか考えが及ばないの
 はエンジニアとしてまた彼の性格に起因すると言える。
(4)仮に留学しなくても彼にはこの様にしか考えが及ばなかったとも考えら 
 れる。


当方の両者の見方およびコメント
榎本へのコメント:
(1)彼には留学させてもらったと言う徳川への恩義もあり、徳川へ足を向けら
 れないと言う心情が根底にあり、幕府を信じて疑わなかったと言える。ベース
 はエンジニアながら政治面で分析的な見方をできなかったと言える。自分が彼
 の立場であったら同じ状況になっていたであろうと考える。
(2)また、海軍力には自信をもっており、これで徳川への恩返しとして、また
 自分の習ってきた技術を発揮したい思ったことと思う。
(3) かと言って、彼は決して口下手ではなくむしろ交渉能力に長けていたと
 言える。西郷へ軍艦返却を申し入れたり、慶喜に外国に残った留学生のため金
 の無心をしたりしている。また、外国語や国際法に長けているため、外国との
 交渉に存分に彼の力は発揮されていた。
(4)上記(3)の彼の力量については今後出てくる函館戦争で遺憾なく発揮さ
 れる。

2009/09/17

榎本武揚 

今年初めから、榎本武揚について下記の観点から調査し、
まとめたものを毎月
メルマガに掲載しています。
将来、英文に翻訳し、外国人に彼を紹介して、"
知られざる国際的日本人"として
彼らの武士道に対する考え方や日本人観を一変
させたいと思っています。
取りあえず、徐々にまとめ、メルマガで発行したものを
アップしたいと思います。
ご興味ある方は最後までお付き合い願えれば幸いです。




(目的)明治時代にありながら、かつ日本人でありながら、日本人にないスケー

ルの大きな国際人としてまた、21世紀に生きていても不思議でない位の存在感
と活躍ぶりを紹介したいと思っています。また、国際人を育てるには帰国子女や
学童をどのように教育すべきかを検討する材料としたいと思っています。

(その7)戊辰戦争(江戸城明け渡し交渉に向けて勝の活動)

1.慶喜はひたすら江戸城内にあって謹慎、恭順の意を表した。政府側はこれに
対し、謝罪文のみでなく、その実効を要求した。

2.旧幕臣は反撃の態度を示す者多く、浅草寺に彰義隊を結成した。彰義隊は江
戸市内の警備に当たり、信用を得て、次第に勢力を増し、政府軍と衝突するこ
とがあった。
3.慶喜はこの情勢を見て、彼らを諌めるため江戸城を出て、上野・東叡山に蟄
居し、不敬な言動をしないよう諭した。

4.徳川家、特に慶喜にとって唯一頼りとなるのが勝であった。
 山岡鉄太郎は慶喜が総身より謹慎の意を表しているのを見て、感激し、死を以
て慶喜の意を朝廷に伝えるため、捕虜の薩摩藩士・益満を伴い、単身で大総督
に会見することを勝に相談し、了解され、勝の手紙を持って西郷に面会を申し
入れた。
・勝の書状の内容:「不偏不党の立場で、公明正大であるよう」と西郷に願い出
た。
5.山岡は勝の文書を持ち、西郷に面会し、徳川家の恭順、謝罪の意を述べ、江
戸の情勢を伝え、穏便な処置を嘆願した。

6.これに対し西郷は以下を恭順の条件として示した。
 ・慶喜を恭順のかどで備前藩に預かりとする。
 ・江戸城を明け渡す。
 ・軍艦、武器一切を渡す。
 ・城内居住の家来を向島に移し、慎居すること。
 ・慶喜の妄動を助けた者を厳重に取り調べて謝罪の道を立てること。
 ・もし暴挙して手に余ったものは官軍をもって鎮めるべきこと。

7.これに対し、山岡は「慶喜の備前送りだけは承知できない」とした。
 この理由は慶喜を備前に持って行かれては何をされてもどうにもならないから
であった。例えば、打ち首や切腹を命じられても抵抗できなかったからであっ
 た。
8. 勝の出番:西郷と勝との会見:
・3月13日:西郷は江戸に入り、14日高輪の薩摩藩邸で勝と会見した。この会 
 議は、それぞれの側の最高責任者としての会見であり、如何に誠実に話し合う
 かにより全てが決せられる重要な会議であった。また、両者がそれぞれを理解
 していたことで江戸での市街戦を避けられたと言える。
・勝の出した条件:
 ① 慶喜が水戸に引退し、謹慎する。
 ② 江戸城を明け渡す。
 ③ 軍艦、武器を一切引き渡す。
 ④ 徳川家の領地・数百万石の処置:公正な朝廷の裁可を乞う。
・西郷は会見後、駿府に帰り、参謀会議を開き、結果として官軍全体に「江戸城
 進撃を中止する」ことを発した。


当方のコメント:
1.山岡の取った行動は、慶喜が真に恭順し、蟄居してるのを見て、慶喜および
 徳川家を何とか救いたいとの一心から自分の命を捨てて、西郷にお願いした。
 同じ武士として、互いに共感したに違いない。

2.また、勝との会談では最後の詰めであり、言わばサミット会議である。しか
 し、これもやはり互いに尊敬する者同士の会見であったと推察される。西郷は
 弁が立つ方ではないから聞き役に回ったに違いない。勝は筋を通して、しかも、
 「徳川家や慶喜への処置を公正に」と願っている。これは誰も否定できない事
 柄で、武士として納得されたものと考える。しかし、勝は他方で、この会談の
 準備のため江戸の寄力衆を集め、もし西郷が、勝の要望を聞き入れず、会談が
 挫折した場合を考え、「モスクワでのナポレオン敗退作戦」と同じような作戦
 を取ろうと考えていた。(かれはナポレオン戦争を知っていただけでなく、そ
 の戦略を学び、大鳥圭介に打ち明け、かつ、新門辰五郎などを呼び、政府軍を
 江戸中央に呼び込み、周囲を一気に焼き払う手立てを準備していた。)従って、
 西郷へお願いと言いながら、態度として決して負けておらず、むしろ「やるな
 ら、やって見ろ」との気構えで、また場面によって相手を威圧する位の態度で
 臨んだことと思われる。外交交渉では力の政治学として通常使われる手段であ
 る。相手を説得するのに無手勝流では難しい例でもあろう。現在の日本外交は
  余程弁の立つ外交官か、(そのような人材はいるかは別にして)さもなくば、
 武力を後ろ盾とする必要があろう。しかしながら、日本は憲法の制約がありこ
 れが出来ない。アメリカを後ろ盾にしてきたと言えるが、今後は米国が常に正
 しい判断が出来るとは言えず、多極化時代を反映して、国連を強化しこれを使
 って行うことが良いと考える。

3.また、西郷とて、戊辰戦争が始まる前、江戸を混乱させるため、結構今日で
 言うテロ行為を仕掛け、犯罪行為をやらせていた。これにより江戸の薩摩屋敷
 に討ち入りとなり、戊辰戦争へと導かれていった。決して日本人としてほめら
 れたものではない。西郷は武士道の観点から、山岡や勝の態度を見て(主君を
 救う気持ちに打たれ)態度を決定したと思われる。良い話である。
 これは、後に出てくる、函館戦争の初期、榎本軍への扱いとは大変異なっている。


同じ気持ちで動いたら函館戦争は起こらなかったであろう。





2009/08/04

(その7)戊辰戦争(江戸城明け渡し交渉に向けて勝の活動

1.慶喜はひたすら江戸城内にあって謹慎、恭順の意を表した。政府側はこれに
対し、謝罪文のみでなく、その実効を要求した。

2.旧幕臣は反撃の態度を示す者多く、浅草寺に彰義隊を結成した。彰義隊は江
戸市内の警備に当たり、信用を得て、次第に勢力を増し、政府軍と衝突するこ
とがあった。
3.慶喜はこの情勢を見て、彼らを諌めるため江戸城を出て、上野・東叡山に蟄
居し、不敬な言動をしないよう諭した。

4.徳川家、特に慶喜にとって唯一頼りとなるのが勝であった。
 山岡鉄太郎は慶喜が総身より謹慎の意を表しているのを見て、感激し、死を以
て慶喜の意を朝廷に伝えるため、捕虜の薩摩藩士・益満を伴い、単身で大総督
に会見することを勝に相談し、了解され、勝の手紙を持って西郷に面会を申し
入れた。
・勝の書状の内容:「不偏不党の立場で、公明正大であるよう」と西郷に願い出
た。
5.山岡は勝の文書を持ち、西郷に面会し、徳川家の恭順、謝罪の意を述べ、江
戸の情勢を伝え、穏便な処置を嘆願した。

6.これに対し西郷は以下を恭順の条件として示した。
 ・慶喜を恭順のかどで備前藩に預かりとする。
 ・江戸城を明け渡す。
 ・軍艦、武器一切を渡す。
 ・城内居住の家来を向島に移し、慎居すること。
 ・慶喜の妄動を助けた者を厳重に取り調べて謝罪の道を立てること。
 ・もし暴挙して手に余ったものは官軍をもって鎮めるべきこと。

7.これに対し、山岡は「慶喜の備前送りだけは承知できない」とした。
 この理由は慶喜を備前に持って行かれては何をされてもどうにもならないから
であった。例えば、打ち首や切腹を命じられても抵抗できなかったからであっ
 た。
8. 勝の出番:西郷と勝との会見:
・3月13日:西郷は江戸に入り、14日高輪の薩摩藩邸で勝と会見した。この会 
 議は、それぞれの側の最高責任者としての会見であり、如何に誠実に話し合う
 かにより全てが決せられる重要な会議であった。また、両者がそれぞれを理解
 していたことで江戸での市街戦を避けられたと言える。
・勝の出した条件:
 ① 慶喜が水戸に引退し、謹慎する。
 ② 江戸城を明け渡す。
 ③ 軍艦、武器を一切引き渡す。
 ④ 徳川家の領地・数百万石の処置:公正な朝廷の裁可を乞う。
・西郷は会見後、駿府に帰り、参謀会議を開き、結果として官軍全体に「江戸城
 進撃を中止する」ことを発した。


当方のコメント:
1.山岡の取った行動は、慶喜が真に恭順し、蟄居してるのを見て、慶喜および
 徳川家を何とか救いたいとの一心から自分の命を捨てて、西郷にお願いした。
 同じ武士として、互いに共感したに違いない。

2.また、勝との会談では最後の詰めであり、言わばサミット会議である。しか
 し、これもやはり互いに尊敬する者同士の会見であったと推察される。西郷は
 弁が立つ方ではないから聞き役に回ったに違いない。勝は筋を通して、しかも、
 「徳川家や慶喜への処置を公正に」と願っている。これは誰も否定できない事
 柄で、武士として納得されたものと考える。しかし、勝は他方で、この会談の
 準備のため江戸の寄力衆を集め、もし西郷が、勝の要望を聞き入れず、会談が
 挫折した場合を考え、「モスクワでのナポレオン敗退作戦」と同じような作戦
 を取ろうと考えていた。(かれはナポレオン戦争を知っていただけでなく、そ
 の戦略を学び、大鳥圭介に打ち明け、かつ、新門辰五郎などを呼び、政府軍を
 江戸中央に呼び込み、周囲を一気に焼き払う手立てを準備していた。)従って、
 西郷へお願いと言いながら、態度として決して負けておらず、むしろ「やるな
 ら、やって見ろ」との気構えで、また場面によって相手を威圧する位の態度で
 臨んだことと思われる。外交交渉では力の政治学として通常使われる手段であ
 る。相手を説得するのに無手勝流では難しい例でもあろう。現在の日本外交は
  余程弁の立つ外交官か、(そのような人材はいるかは別にして)さもなくば、
 武力を後ろ盾とする必要があろう。しかしながら、日本は憲法の制約がありこ
 れが出来ない。アメリカを後ろ盾にしてきたと言えるが、今後は米国が常に正
 しい判断が出来るとは言えず、多極化時代を反映して、国連を強化しこれを使
 って行うことが良いと考える。

3.また、西郷とて、戊辰戦争が始まる前、江戸を混乱させるため、結構今日で
 言うテロ行為を仕掛け、犯罪行為をやらせていた。これにより江戸の薩摩屋敷
 に討ち入りとなり、戊辰戦争へと導かれていった。決して日本人としてほめら
 れたものではない。西郷は武士道の観点から、山岡や勝の態度を見て(主君を
 救う気持ちに打たれ)態度を決定したと思われる。良い話である。
 これは、後に出てくる、函館戦争の初期、榎本軍への扱いとは大変異なってい
 る。 同じ気持ちで動いたら函館戦争は起こらなかったであろう。

2009/07/16

(その7):戊辰戦争前夜(続)(鳥羽・伏見の戦い~江戸城明け渡交渉・軍艦引渡しまで)

1.鳥羽・伏見の戦い

1867年12月:江戸薩摩藩邸焼き討ちと羽田沖海戦:

慶喜が大阪滞在中、江戸では、薩摩の撹乱戦術で強盗や放火等の犯罪が発生し、
ついには江戸城二の丸が焼けた。徳川の兵が憤激し、薩摩、土佐藩邸を包囲し、
焼き討ちした。薩摩藩兵は軍艦翔鳳丸に乗って逃げようとしたが、これを知った
幕府海軍は回天丸を出動したが最終的には逃げられた。

この焼き討ち事件は12月28日には京阪地方に伝わり人心を騒がせ、これまで
我慢していた幕府側の幕臣や旗本は武器を持って立ち上がった。即ち、大阪城の
幕府側は主戦論の勢いが強くなった。

1868年1月:一方、朝廷側はこれを見て薩摩、長州、土佐、芸州の各藩に命じ、
鳥羽・伏見の警備を強めた。これにより、幕府側と交戦状態に入った。同時に、
海では兵庫沖で海戦が始まった。幕府海軍は榎本が開陽丸の船将として指揮し
ていた。

結果として、陸軍では幕府は完敗し、大阪城に逃げ込んだ。一方海軍は戦勝し、
榎本は大阪城に入った。



2.徳川を朝敵とし、東征軍の派遣

朝廷は大久保や西郷の強請により、徳川家を朝敵とすることとした。

1月4日~10日:朝廷側は仁和寺宮を征討大将軍に任じて、征討の趣旨と徳川家
領地を御領とする旨布告した。

1月6日:慶喜は「陸軍の敗戦と朝敵の指名を受けた」ことを、幕閣等を前にした
会議で述べたが、幕内は主戦論者が多く、この空気に押され「江戸に帰って、
再起を期す」とした。しかし、本音は「江戸って恭順すること」であった。これ
以上の衝突を避けるため大阪を、闇の中、榎本が留守の開陽丸に乗り込み逃げ出
した。 また、幕府側諸兵を大阪より退かせる事とした。

1月9日:有栖川総督官を東征大総督として西郷を参謀として、東へ進軍すること
とした。

3.徳川側の動き

1月11日:慶喜は江戸に逃げ帰り、直ぐに静観院宮と天章院を通じて、京の公家に
「隠居して恭順、謹慎し徳川の家名の永続」を懇願する嘆願書を提出した。

しかし、江戸では主戦論が強く、徳川恩顧を数百年受けた彼らは、官軍と言って
も所詮は薩摩であり、これと戦うことに身命を投げ打つことを良しとしていた。

主戦論者:陸軍奉行並・小栗上野介、歩兵奉行・大鳥圭介、海軍・榎本武揚

この時、榎本は軍艦で大阪を突くことを主張した。

旧幕臣は主戦論で反撃の態度を示すもの多く、浅草本願寺に彰義隊が結成され、
その後、数を増していった。また、隊は江戸市内の警備に当たり人気を得、一大
勢力を形成した。

一部で政府軍と衝突することもあった。



4.この時の慶喜および勝の考えと行動:

(1) 慶喜はひたすら恭順の意を表した。また、自分の不明のため戦禍が起これ
ば、中国やインドの轍を踏むこととなり、日本国として瓦解することとなる
ので、旗本等は各地に戻り、朝令を遵法し、士民の安堵を計るよう説得した。
(これは勝の意見でもあった。)

(2) 慶喜は多くの主戦論幕閣の中で孤立しており、同じ意見を持つ勝を必要と
し、重く用いざるを得なかった。

(3) 幕内改革:老中、若年寄が分担した役職(会計総裁)を止め、幕府新体制
(3名の若年寄)とした。

 ・陸軍総裁:勝安房、 副総裁:藤沢次謙 

 ・海軍総裁:矢田堀鴻 副総裁:榎本武揚 

 ・外国事務総裁:山口直毅 副総裁:成島弘

 ・会計総裁:大久保一翁

以上の通りで、問題は主戦論者の榎本を勝が起用した。この理由は下記の通り。

・榎本の手腕・技術者として彼を買っていた。

・榎本を「有能であるが危険な人物」とし、野放しに出来ないとしていた。

  このため、彼を入閣させ、閣議で決定した政策に対し、榎本にも一半の責任を
負わせ、拘束することであった。しかし、実際上、勝が榎本を金縛りにはでき
なかった。幕府の海軍力は強く、また、軍艦は海上に浮かんでいるのでコント
ロールが効き難いため彼を陸に置くことであった。



(4) 外国勢力介入の防止

 慶喜と勝は、前述の通り、「当時の日本の状況が内乱となり、外国の助けを
求めることで中国やインドの二の舞になる」ことを心配した。それ(内乱)を
防止するため下記の行動をおこした。

1) 慶喜は「朝廷に恭順し、蟄居するので、徳川家が取り潰しとならぬよう」
嘆願書を提出することとした。

2) その使いには勝を使うこととした。

3) 勝はこの目的のためには死をいとわなかった。また、死を覚悟して敵陣へ乗
り込んだ。

4) 一方、フランスは(特にロッシュ公使や書記官は登城して謁見を求め、)
再挙を薦めた。軍艦、武器、軍資金を全てフランスから供給することを申
し出た。
これに対し、慶喜は拒否した。また、皇室に対し二心がないことを強調した。

また、フランスの教官が勝を訪ね、戦争への決意を求めたことに対し、勝は
公使館へ出向き、国情を説明し、教官の厚意を謝すと共に、彼を教官の職を
解くことを説得した。


当方のコメント:

(1) 尊王攘夷派の薩摩が薩英戦争および長州が四国戦争等外国と戦い、これを通し
て敵の力を目の当たりに知り、その後、彼等は、自ら軍備を改革していった。
坂本竜馬、勝等の意見で、「日本国として政府を作るには、自分たちが主導
権を持ち、改革する必要がある」と考えた。即ち、公武合体論でなく、(こ
れでは、徳川支配を排除できないと考えた。)ついに倒幕に向けて進むこと
となった。西郷としてはゲリラ作戦を行ったりで、結構過激な手を打ってい
たと言える。

(2) 一方、幕府は徐々に軍艦を作ったり、留学生や使節を外国に送ったりまた、フ
ランスから軍事顧問を呼び軍事改革を行ってはいたが、薩長に比べ改革が未
だ十分でなく、鳥羽・伏見の戦いに敗れた。即ち、主原因は武器や装備の違
いであった。

ただし、海軍は軍艦の数や大きさで幕府が圧倒的で強さを誇っていた。この
自信が榎本を主戦派にしていた大きな原因ともなった。

(3) 榎本の主戦論たる所以は、彼が指揮する海軍は圧倒的に強かったこと、論理的
には、薩摩の戦略に乗ってしまったこと。即ち、どちらが正義かと言えば、
幕府である。

これが主戦論の言い分である。

しかし、鳥羽伏見の戦いで敗れた以上、多少理不尽であっても朝廷側の決定
に従わざるを得ない。主戦論者には、「内乱が起こることは外国勢力の侵攻
を進めることとなる。」と言う意識はない。これが問題と言える。

(4) 省みれば、幕府側の軍事改革の遅れは、1839年(高野長英は蛮社の獄で捕ら
えられ、獄死した。)に始ったと言える。当時高野長英はシーボルトの弟子
となり「日本の捕鯨」と題する学位論文を書き、また、これを通じ軍事戦
略に最も精通していた。幕府はその彼を失い、高野を最も評価し海外事情や
外交に通じた堀も1860年:上司である老中・安藤と外交政策で意見が合わ
ず、政策論争に終止符を打つため自害した。従って、外国の状況に最も詳し
くまた戦略を持つ人物を失い、改革が遅れてしまったと言える。

2009/06/11

榎本武揚の生涯と時代 その4

明治時代にありながら、かつ日本人でありながら、日本人にないスケ
ールの大きな国際人としてまた、21世紀に生きていても不思議でない位の存
在感と活躍ぶりを紹介したいと思っています。また、国際人を育てるには帰国
子女や学童をどのように教育すべきかを検討する材料としたいと思っています。

1.幕末1850年代以降の勝の活動と考え方
1.1 倒幕運動と幕府の動きに対し、勝は以下の考え方を持っていた。
(1)どんなに困っても、国を売るようなことは断じてしない。
(2)幕府だけのために行動はしない。
(3)尊王攘夷派と開国派(また後の薩摩・長州反幕派と幕府側との対立)と
の激しい対立の中で方向を失いかけていると判断し、「日本全体をどの様にす
るか。」これが勝の基本姿勢であった。これには幕府的立場を超越し、国全体
のために、事態を処理する他ないとした。
(4)このためには、薩摩とも話し合いを行った。
1.2 勝の活動と幕府および諸藩の動き
(1)勝の動向:
1863年9月:西郷と会見し、以降しばしば会見した。幕府側の人材不足、慶喜
への失望感から勝の動きは反幕府的となった。当然、かれは幕府側から見て、
不穏と判断された。
10月10日:ついにお役御免となる。即ち、蟄居の身となるが、切腹を命じられ
ないだけ幸いであった。これは彼が慶喜から将来、利用価値があると判断され
たためであろう。しかし同時に、神戸操練所は解散となった。これにより、勝
自身は益々反幕府となった。
(2)幕府および雄藩をめぐる英、仏の対立:
 1)第1次征長戦争で、幕府とフランスの関係が密となる。具体的例として
下記が挙げられる。
 ・1865年:幕府、「横浜に製鉄所、横須賀に工廠を新設する。」ことを仏公
使・ロシュに委任した。
 ・横浜にフランス語学校を開校(ロッシュの要請による。)
 ・その他、ブラッセルに仏国人と商社を新設した。
 2)薩摩と英国との関係:
 ・英国商人から銃砲や軍艦を購入す。
 ・五代、寺島、森有礼を英国へ留学させた。
 3)長州藩:英国と接近、機械や武器を購入した。
  長州は禁門の変での敗戦で、幕府に謝罪の姿勢を示すため、3家老を切腹させ
た。藩がお取りつぶしにならなかったのは西郷の配慮よるものであった。
しかしその後、長州は幕府に恭順姿勢をとる俗論派に主導された。
 1864年12月:高杉、長府の功山寺で挙兵し、長州藩の方針を転換させよう
とした。これに伊藤と彼の指揮していた力士隊が続いたが、藩内では内乱が
起き、混乱した。
 1865年1月:奇兵隊は山県が指揮を執ることとなり、俗論派を攻略し、藩は正
義派が主導するようになった。長州は表面上恭順を保ちながら同時に近い将
来幕府側が再度攻めてくると予想し、自藩を下記の4か所に分けて防備を敷く
こととした。
  ・芸州(広島) ・大島口(周防大島) ・石州口(島根) 
・小倉(福岡小倉)
 4)4カ国連合、長州の下関攻撃事件の後処理として、パークスの最終提案と
 して下記を幕府に要求してきた。
  ・賠償金の支払、慶応2年中に支払うこと。
  ・大阪、神戸を開港し、条約の勅許を得れば支払延期を認める。
 5)上記4カ国の要求を受けて、幕府・慶喜は老中を抑え、公使等に回答延期 
 を求め、将軍上洛し、4カ国の要求の勅裁を仰ぐこととした。
  これに対し、朝廷は「条約勅許、神戸開港」を不可としたため、幕府の面目 
 丸つぶれとなった。
 6)1865年:第2次征長戦争(四境戦争ともいう)
  この戦争は勝や榎本に直接関係しない。と言うより勝は前述の通り、幕閣
  から外され、蟄居の身となり、活躍する場を失った。しかし、時は動きを増 
 していくこととなる。これから幕府が衰退の一途を進み、逆に、長州が勢力 
 を回復し、薩摩と組んで討幕へ加速することとなる。極めて重要な事件であ 
 るので、少々、詳しく戦略を含め説明を加えたいと思う。また、長州では高 
 杉やその部下として活躍する山県はこの戦争体験を通じて、後の帝国陸軍の 
 形を作り上げていくこととなる。
  なお、以下の本稿は主に「山県有朋」伊藤之雄著によるものである。
 1865年4月13日:幕府は諸藩に長州再征を命じた。しかし、各有藩(薩摩、
  尾張、越前等)は出兵を拒否した。幕府自体も財政窮乏していた。さらにま
  た、この年は全国的飢饉が起こり、このため江戸、大阪、兵庫で一揆が発生 
 し、世情騒然であった。このため、幕府も征長に中々踏み切れなかった。同 
 時に幕閣内でも征長戦の可否を議論して時間を要し、勅許が出てから既に1 
 年が既に過ぎた。
  一方、同年、長州は前述の通り、自藩の内乱を高杉をはじめとする正義派が 
 固めて、幕府側の攻撃に対処するよう態勢を固めつつあった。また、薩摩と 
 連合し、また英国から援助を受けて、最新兵器を購入していた。
 1866年5月:幕府側は総勢10万人を長州境に集結させた。ただし、前回と異
  なり、薩摩はこれに加わらなかった。他方、長州は幕府側の10分の1の兵 
 力であった。小倉口には高杉、山県が奇兵隊を指揮していた。山県はやる気 
 満々で、小倉を攻める案を木戸に提案したが、「戦争が起こると万民がひど 
 く苦しむので、やむを得ず幕府側と戦う」ということを天下に示す必要があ
  ると窘められた。
  6月7日:大島口で、幕府戦艦からの砲撃で戦闘開始となった。
  高杉等は小倉で、小倉藩兵および肥後藩兵計2万人が集結する小倉城を奪う
  計画を立てた。6月17日:高杉が指揮する奇兵隊は自藩の戦艦の援護射撃 
 を受けて小倉城を攻め、戦闘を開始した。8月には城を占領したが、戦いは 
 12月末まで続き、12月28日和議が成立した。4つの戦いの内、藩外への 
 進出しての戦いのため、小倉が最も激しい戦いとなった。この時、高杉や山 
 県が立てた戦略は下記であった。
 ①薩長同盟を利用して、九州全域を支配する。
 ②さらに、広島、岡山を薩長に協力するよう説得し、土佐、鳥取、松山藩の雄
  藩を薩長を支持するよう転換させる。
 以上の案は藩主へ提言したが受け入れられず、1年後、鳥羽伏見の戦いとなっ
 た。他の3つの口は容易に勝った。
 幕府側の負けた原因:
 ①長州側が最新兵器で装備しているにも関わらず、幕府側は弓矢、槍等の旧式
  の武装をしていた。
 ②長州兵の自国を守るという意識で、士気が上がっていた。
 ③主に戦いは自藩内であったので地の利を得ていた。
 フランスは幕府を支援したが、結果として国内政局が外国の勢力介入により決
 定される代理戦争の様相を呈してきた。これは勝が最も恐れるところであった。
 7)7月20日家茂、病死する(享年21歳)。慶喜は徳川本家を継ぐこととなる。
  しかし、家茂の死後、慶喜は将軍となることは拒否していた。
 12月:慶喜、15代将軍となる。:朝廷から依頼を受けるとすぐさまこれを受託 
した。そして、慶喜は勝を呼び寄せ、長州との戦争中止を交渉させようとし、
 勝を長州派遣した。勝は長州へ向かい宮島で待機していた。
 家茂の死を理由に征長を中止することとし、長州と交渉し休戦とした。実質は
 幕府側の敗北であった。このことで、慶喜は有藩から信頼を失うこととなった。
 1866年12月:孝明天皇崩御した。このため公武合体案は頓挫した。
 1867年1月:明治天皇、皇位につく。
 8)1867年10月:慶喜の必死の努力により、下記が勅許となった。
 ・兵庫開港 ・長州処分 は今後の問題として残し、条約のみ勅許された。
  これで幕府完全に権威を失う結果となった。

今回はここまでとします。次回榎本が登場します。お楽しみに。

当方のコメント:再度、高杉晋作のコミュニケーション能力について
 
 今回は榎本や勝の活躍の場がなかったが、目を引くのは高杉の活躍である。
長州藩は反幕府の急先鋒とて働き蛤御門の戦いで失敗し、謝罪のため三家老が
切腹させられた。また、攘夷運動として下関で外国船に砲撃しその時は外国船
が逃げたが、後日4カ国連合艦隊が長州を攻め上陸占領すると言う結果を招き、
今考えるとハチャメチャで過激な藩と思える。全て自ら起こした事件であり、
失敗の反動として当然ながら、藩内では反幕府派としての「正義派」と恭順す
る保守派の「俗論派」に割れて入れ替わり藩内体制が揺れに揺れた。
 当然、この時期は(第二次長州征伐の命が出る時期)俗論派が長州藩が政権
を握っており、正義派の主要メンバーであり、奇兵隊の高杉、桂、伊藤などは、
それぞれ解散を余儀なくされていた。そこで、かれらはその後、如何にすべき
かを論議するため、功山寺に集まった。その時、高杉が一人、幕府に恭順する
ことを拒み、「幕府を迎え打つべき」と唱えた。曰く「一里行けば一里の忠を
尽くし、2里行けば2里の義を表す。尊皇の臣子たるもの一日として安閑とし
ている場合ではない」とした。この名言が同志の一人伊藤を揺さぶり高杉に従
う決心をした。伊藤が率いる力士隊が加わった。因みに山県等他の者は様子見
であったと言う。この時の高杉のたった一人の反乱が、オセロゲームのように
正義派へとひっくり返された。
単なる言葉だけで人は動かないが、動く時は言葉が必要である。高杉の身を捨
てた行為と発言が同志を揺さぶったと言えよう。この意味では高杉はコミュニ
ケーション能力に長けた人物である。また、この後、小倉戦を戦う途中病死す
るが、彼は倒幕へ向けての戦略を持っていた。単に、幕府軍を防衛するためで
はなかったと言える。

2009/05/22

榎本武揚の生涯と時代

今年初めから、榎本武揚について下記の観点から調査してまとめたものを
毎月
メルマガに掲載しています。

また、将来英文に翻訳し、外国
人に榎本武揚を紹介して
"知られざる国際的日本人"として彼らの日本人観を一変させ
たいと思っています!

…と言うのも数年前「ラストサムライ」と言う映画が世間で流行り(覚えてますか?)
当方が観た印象は、特に最後の場面での「砲弾の中を刀で突進していく」

とても理性的でなく、単純化され過ぎて
いて…
単に蛮勇としか言いようが無いものでした。如何にもアメリカ映画だ
と思い、がっかりしました。
無論そのような戦闘をした侍もいたことは確かです
が、そればかりではないということを紹介しつつ
そのようなサムライ・日本人
のイメージを払拭したいと思っています。
取りあえず、徐々にまとめて
いきたいと思ってますので、

ご興味ある方は最後までお付き合い願え
れば幸いです。


1.はじめに

 今月は最初なので、なぜ今榎本武揚を取り上げるかを述べたいと思います。

彼が若い頃(18歳)に蝦夷(北海道)やサハリンに行き、測量を手伝った。
この
測量を通じ何を学び、後年オランダへ留学し何を学んできたかを調査し
介したいと思います。
また帰国後、留学で外国文化をいち早く学びながら旧
体制を支持し、新政府へ戦いを挑み戦い、具体的には函館戦争を起こし敗れました。
その後入牢し、敵の将であった黒田清隆や、福沢諭吉の働きで生きなが
らえ、解放後は一転して、
北海道開拓使として働いた。その後、内閣に迎えられ
文部大臣、さらには外交官として、
外務大臣として活躍してきた。
ロシアとの交
渉をまかされ帰国時、馬車でぺテルスブルグ(欧州)からシベリア経由で帰国し
ている。
(これは若い頃の北方調査における活躍と関心に関連すると思われます。


明治新政府となってから、時代が彼を必要(要求)したとは言え、技術者から戦闘のリーダー
外交感覚を身につけた彼の努力と才能、実績を紹介しながら、
彼の思想および

問題点を追ってみたいと思います!
その上で、なぜ旧体制を支
持したか
(勝海舟とは別の活動)を考え教育のあるべき姿を考えたいと思って
います。
逆な言い方をすれば、教育の観点から彼を眺め、分析して行きたいと思
っています。

1.2 どのような側面から取り上げるか
 前述の通り、彼は、函館戦争を代表するように一見、時代と逆行する活動をし
ながら、一方で、この戦争通じて実施してきたことは米国、フランスおよび英国
に「極外中立でいるよう」外交交渉を行い、戦闘に当たっても、ゲリラ戦法を取
りながら国際法に基づき行うという現代的な面もあった。生涯を通じて、技術屋
としての律儀な性格を基本として、また一方で、5ヶ国語をこなし、外交官とし
ての理性的面を交渉で見せ、説得力を持ち合わせていた。当時のロシア皇帝アレ
キサンダー三世の好感をもたれた人物でもある。他方、個人的には交渉力におい
ても伊藤より力がありながら、幕府側に組したことで、薩長・明治政府に負い目
を感じてか、政界で活躍することはなかった。そんな彼を浮き彫りにしたいと考
えます。一般的日本人にない人物として21世紀に生きていても不思議でない位
国際的な人物として紹介し、学童をどのように教育すべきかを検討する材料とし
たいと思っています。

  また、同じく、長崎伝習所で学んだ1年先輩の勝海舟と比較して、なぜ二人
が幕末の活動に大きな違いを見せたのかを述べていきたいと思っています。通常
伝記は時系列的に述べるのが普通ですが、ここでは、勝との対比を中心に述べた
いため、第2部からスタートさせていただきます。

Part 1: 誕生からオランダ留学を終え、帰国まで。
(1)彼は若い頃は地理を学び、日本地図作成の手伝いや、伝習所では、船のエ
   ンジンを扱うエンジニアとして活躍していた。
(2)オランダでの留学生活で何を学んだか。

Part 2: 函館戦争の顛末
  函館戦争の首領として活躍した彼の戦い方(ラスト侍として)を調査し、問
  題点を含め述べていきます。そして「仮に彼は勝ったとしたら、北海道はど
  のようになっただろうか?」を考えてみたいと思います。

Part 3: 函館戦争後、牢屋から開放され、明治維新政府に閣僚としての活躍
  明治維新以降の彼の活躍ぶりを調査し、述べていきます。「もし彼が死罪と
  なっていたら明治維新または日本はどのようになっていたか?」を考えてみ
  たいと思います。